2015年08月26日

寝屋川・高槻の事件ついて(続)【自分たちの街の顔色】

 昨日のエントリーの続です。

 この事件の話は自分の街の話ですから、いやがおうでもいろいろな場面で話になります。
昨日も役所のある少人数の全く別の会議のあとにこの件に関する話題になりました。
 その際の話題の中心になったのは、夜な夜な街の中にいるこどもたちは自分たちの街の風景としてあたりまえの風景か、という話です。

 私たちは、自分たちの狭い世界と興味の中で生活しています。それは自分の生育歴と重ね合わてもです。
少し話がずれますが、私たちの小学校中学校時代=世代的には校内暴力時代、ドラマの「金八先生」の時代、尾崎豊の時代になります。

 自分たちの中学校くらいの時代を思い起こしたときに、いまの中学生の話と何が同じで何が違うのだろうか。
一夜にして、学校の窓ガラスが数十枚割られていた、蛍光灯がなくなって廊下がガラスだらけ、教室は穴だっらけ。先生が黒板に文字をかこうと生徒に背をむけたら、ものが飛ぶ。そんな中学校時代でした。
今、私が住んでいる高槻は、当時で言えば隣町ですが、いじめで運動場に真っ裸にされて、障害のある生徒さんがだされたとか、そういえば、シンナーを夜に学校に忍び込んで吸っていて亡くなった生徒さんの話とかもありました。
そんな時代の自分たちの中学生時代といまの中学生は、と。
でも、実はこの手の話はあまり意味のある話とは思えません。単なるジェネレーションギャップの話であり、いま、生きて生活している人たち(この場合は中学生)にとっては、昔の話と比べられても。。。という話でしょう。

 一方で、街の風景で気になることがあります。
 寝屋川の駅前や街の中のコンビニの前には、22時や23時をすぎても小・中学生のたむろっている姿は当たり前にみるのです。校区によっては、お母さんたちの話から、普通に家出して帰ってこないこどもたちの話をききます。いいことかわるいことかわかりませんが、この話のI君のような話も日常的にききます。
 他方、隣町の枚方市や自分の住む高槻市の21時、22時の駅前の風景といえば、塾の入り口から、塾の先生たちが集団でこどもたちを守りながら送り出す姿や迎えにくる親御さんたちの車の渋滞の列だったりします。
この差はいったいなんでしょうか。もちろん、高槻や枚方にもたむろっているこどもたちの姿がなくはありません。が、明らかに「街の『顔色』」が違います。

 私たちは一定の価値観をもとに考えます。ここまで読んでくださった方が、自分の価値観に照らし合わせて、この寝屋川と枚方・高槻の現状を読まれて、どのように思われるでしょうか。
 もちろん、いまこんな事件のあとですから、そこにバイアスがかかっているかもしれません。が多くの方が寝屋川の現状を嘆き、それはおかしいといわれるのでしょう。

 しかし、問題は昨日今日に起きたことではないのです。
 構造的にものすごく深い問題が地域の中にあり、この現状がおこっています。

 みなさんには、「事件の起こった街寝屋川」の話ではなく、一つの街の現状をして、自分たちの街の「顔色」つまりは、現状ですね。をみてほしいです。 



posted by 凸凸 at 07:26| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月25日

寝屋川・高槻の事件について

 ご存じのように昨今、世間を騒がせている事件は、私の活動のフィールドです。

 事件が起こり、その事件がセンセーショナルであればあるほど、報道され映像や画像、文章でおおぴらにされる裏側には、多大なる影響があります。

 寝屋川市は昨日、今週末の寝屋川まつりの中止を発表しました。この事件がまだ未解決な部分が多く、こどもたちの危険を考えてというのが公式のコメント。毎年のことだが、夏休み最後の大きなお祭りに、ほぼ夜な夜な若者たちがたむろうので、いまの町中のTVカメラや好奇心にみちたジャーナリストたちのことを考えて、二次的三次的な報道の暴力から守ろうとしたというのも正直なところではないか。(そこまで考えているかどうかは不明だが)と私はおもっています。それほど、まだまだ、TVカメラやなんやが入り込み、ざわざわしています。

 あえていっておくと、寝屋川という町、これまでもさまざまな事件で、世間を騒がせています。

たとえば、
2005年の寝屋川中央小学校事件 http://yabusaka.moo.jp/neyagawasyou.htm
その前にも中学生が未明に家に押し入り、おばあさんも殺した事件というのもありました。

また、最近は少し落ち着いてきましたが、虐待・虐待死の多いまちで、何年か前に、東の方に仕事で行ったときに、大阪の寝屋川で 言うと、「あーあの虐待の多い町ですね」といわれて絶句しました。

確かに、だからこそ、行政だけでなく、学校や地域や有志が、劇的な改善はなかったかもしれませんが、コツコツとそれなりに、とりくみを続けていると思っています。

わかるひとにしかわからない話かもしれませんが、こういった犯罪が起こる地域というのは、構造的に課題があって、それは個人や家庭の問題ではなく、ソーシャル(社会的)な課題があり、また、それは、一行政区域の問題だけで解決できない課題や問題も多いです。
そういったことを一つ一つ丁寧に、気がついた人たちが解決に尽力していくしかない。

そういった取り組みは、結果としてこういったセンセーショナルな事件によって、いや、センセーショナルな事件の「報道」や評論によって、踏みにじられます。

今回、とても悲しい文章にであいました。
もちろん、大手のマスコミによってだされたり、ネットのデマめいた情報であったりは、いうに及ばずなのですが、私たちのような活動をしているものに、よりそった文章を発表しているみわよしこさんの文章です。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/miwayoshiko/20150822-00048734/

「生活保護のリアル」という著作やダイヤモンドオンラインで、いろいろな指摘をしていただいていて、私もよく読ませていただいています。このyahooニュースに掲載された文章は、まるで、「被害者の立場」という視点で、どこかの地域のような取り組みがあれば、さもこどもたちが救えたというように読めてしまいます。

寝屋川にもこどもたちの居場所をつくろうという取り組みは官民にあります。また、地域のPTA協働の取り組みもあります。

おそらくは作者は、そんなつもりはないとおっしゃるとおもいます。穿った見方かもしれません。ただ、当事者地域の活動者の立場からは、傷口に塩を塗り込まれたような文章です。おまえたちのやっていることは、無意味だったではないか、と。この地域のこの取り組みくらいやらないとだめなんだ、と。

いまは、まだ、事件の全容が明らかになっておらず、全容探しに主眼が集まっていますが、時がたてば、事件再発の対策がどう練られていくのかということに主眼がうつります。すでに、一部報道では防犯カメラの設置促進を市が補正予算でということがいわれていました。

警察の方が、地域のイベントは防犯効果があるからとおっしゃっていました。しかし、地域のおまつりのようなイベント、とくにこどもが参加するようなイベントは、きわめてやりにくくなるでしょう。

こどもたちの居場所づくりの活動も、一部は増強されるでしょうか、効果性のないものについては、(みわさんの書かれたようなとりくみでないもの)は、無視されるでしょう。

だいたい、人口23万人の町にいったい何カ所の「居場所」があればいいというのでしょう。「安心のため」に居場所があればという効果とともに、こういった事件の場合は、その人がそのときにつながっていないと、直接的な予防にはなりません。そして、その予防は評価されません。

この文章の後半には、加害者の視点ということで再犯者についての話がかかれています。この文章も、私たちの地域には痛い話です。マスコミに大々的に取り組みを報道される地域だけではなく、コツコツと取り組みを積み重ねている地域にとって、丁寧に取材をして、当事者の視点を発信してくださると思っていたライターの方が、地域の実情を無視し、取り組みをしらず、マスコミに流用している情報だけで文章をかかれていまう。

それだけ、今回の事件は、センセーショナルな事件なのでしょう。
そうして、私たちはまた地道な取り組みを、さまざまな「暴力」をうけながらも、歯を食いしばって続けていくしかないでしょう。

残念です

posted by 凸凸 at 08:01| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月19日

何が変わったのか、何も変わっていないのか

 数日前から、ニュースのトップに、高槻・寝屋川の文字が躍っている。

 自分の住む町、自分の活動する町だ。

 否が応でも目に飛び込んでくる文字、そして、見慣れた風景。いや、ブラウン管の向こうの風景は見慣れているが、見慣れていない風景か。

 街中のコンビニで、警察官の姿。通勤に渡る枚方大橋(高槻ー枚方の国道170号の橋)の付近のものものしさ。

 事態は最悪の結果の様相をみせはじめている。

 地元で育ち、活動、仕事をしている人間にとってみると。自分が中学、高校時代とオーバーラップさせてみても、自分が活動して、見せられている現実をしても、わかるけどわかりたくなく、見せられたくない「現実結果」が入り込んでくる。

 数日前に、理不尽さを痛感させられた「人の死」の取扱いで、メンタルがたゆれのところに、この事件。
ちょっと、メンタルやばいい

posted by 凸凸 at 06:45| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月13日

精神障害者の地域生活支援の厚み

 昨日は、寝屋川市の自立支援協議会 精神障害者部会のワーキング会議だった。
寝屋川市の自立支援協議会は他市のやり方と少し違っていて自立支援協議会といわれて、関係諸氏が思われるものとはたぶんちょっと違っている。まぁ、今日の主題はそれではない。

 昨日の会議のテーマは、保健所による受療支援と社協からの生活困窮者自立支援事業についての説明。
特に、取り上げたいのは、受療支援について。

 精神障害者の地域生活支援というテーマでいろいろと話をしたり、きいたりしても、個人的には、寝屋川できくこととの落差というか、ずれを感じることが実は多い。

 寝屋川市がとてもすばらしく完璧で、なんてことはもちろんない。
 が、実はこのテーマ、もっともっと、複合的に考えて、複眼的にみないといけないテーマであると思っている。

 当事者サイドから、精神科医療についての批判があるのも十分承知している。私も一部、主義として同意する部分もある。
 
 一方で、「精神科医療を受ける権利」ということばが関係者間で語られる。
 
 実際に、「本来」は(この「本来」が批判対象にもなり得るが)、精神科医療にアクセスしたいとご本人は思っているのだが、病状の悪化とともに、はからずも服薬ができず、さらに病状が悪化し、ひきこもり。。。という現実が実はある。
 もちろん、これらは、極めてグレーな話で、線引きが難しい。だが、地域生活のリアルの中では、家族との生活、地域での生活の中では微妙な天秤の上にのっからないといけない話もある。だから、複眼的に議論しないといけないと思うが。

 実際に行われているからいいというわけではない。もちろん、それらの事実についてきちんと精査が必要だ。警察、保健所が、できる役割を最大限に発揮できる、してもらえるには、丸投げではなく、「連続性」が必要で、本人、まわりが一緒に考えるということが必要なのだという話が、いちばん心に落ちた。

 あまり散見しない話だし、何度も書いているように、グレーでナイーブな話だが、あえて、取り上げてみた。
posted by 凸凸 at 07:52| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月12日

門外漢からみたリハビリ世界の不思議。エビデンスは科学ではないのに つぶやき

数年ぶりに再開しているtwitter(https://twitter.com/totutotu1968

いろいろなコンテンツを使っていますが、最近はまとめてBLOGに書く時間がなかなかなくて、ぱっと思いついて、書き始めると、結構まとめて、連ツイしたりしています。

今回は、最近、いろいろと興味のあるリハビリの世界の話。
本当はblogでtwitterを紹介するのは、変なので。よかったら、フォローしとってくださいませ。
blogの更新をつぶやく本来の使い方に変えたいとおもっていますので(^^)

専門外の私がいうことではないが。日本の小児リハビリのほとんどがボバース法、ボイター法に偏っているというのが事実であり、そのことをセラピスト世界の中で批判にさらされてきたということが事実であるならば、その方法論が有効であるかどうかという以前に、何か歪んだものがあるということ。

脳性麻痺の小児のリハビリが、ボバース、ボイターしかない。それを彼らが「私たちが彼らに対峙している」というならば、所詮、脳性麻痺者が置かれている「社会」的価値事情を反映しているにすぎない。それがセラピスト世界の中の、メジャーーマイノリティ事情とオーバーラップすることは想像に難くない

具体的なことはわからない。しかし、彼らの中で方針・思想の違い、隔たりは大きいようだ。門外漢である私たちにはどうでもいいが、実際の当事者に影響がでていることをして、少なくとも、その事情を客観的な事実として知っておく必要性が出てきた。統計的エビデンスのありなしなど、どこかできいた話だ

エビデンスが科学であるとだれが言い換えた?!しかし、医学、コメディカル、そして福祉の世界までエビデンスベースドという「似非科学」が侵食している。もともとは、エビデンス=科学は、イギリスでは出てなかったようだが。きわめて政治的なものであるにすぎなかった(「社会福祉学の科学性」参照)

しかし、多職種支援を考えるときに、「科学」(性)は必要だと【臨床】場面で思う。その科学は、おそらくは、それぞれの【専門家】といわれるものが行う『「依る科学」的な「援助」』にもたらされる「臨床の知」を結び付け、問い直し再構築することによりもたらされる「科学」。それが「科学」か?

それが「科学」か?ということについての問い直しをまさに臨床から行っておかないと、まさに哲学のない、科学という名の【権力】に支配されていくように思う。


posted by 凸凸 at 07:15| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする