2015年10月24日

ボランティア団体とNPO組織の「アイダ」に

 私のように、学生時代からボランティアにかかわって、すでに30年以上がたっている人間からしたときに、自分より10才、20才下の人たちが語るボランティア・NPO論について、思うことはあれども、時代はかわったと感じること以外にそれほど言いたいと思うことはない。
 つまり、時代は変わった のである。
 その刻々とかわる時代をまさに体現して、ボランティア・NPOの現場にいるものとしては、その時代の流れについていきつつ、本質的なものを感じていく、そして自らの仲間たちと語るしかない。

 しかしときにこういういいまわしに出会うと、「うーん」と少し悩んだりする。

「ボランティア組織が、事業型NPOへの成長に立ちはだかる「死の谷」とはなにか、どう乗り越えるのか。」
秋元祥治さんとおっしゃる方のBLOGの10月24日のエントリー記事だ。秋元さんは岐阜の「G-net・OKa-Biz」というNPOの方のようだ。

 おそらくこの15年。日本に特定非営利活動法ができ、介護保険が施行されたあたりから、日本にも事業型のNPO(注:ここでいうのは、NPO法人という意味ではなくもう少し広い)が登場し始めた。この歴史的な推移から日本では、なぜか、あたりまえのように、「ボランティア組織が事業型NPOへ成長」とか「発展」ということばが使われてきた。介護保険の導入後、ほどなくして行政の民営化方針の中での指定管理制度が広まっていく中で、そうした流れは成熟し、いったん終息した(と、私は思っている)。
 ボランティア組織からではなく、事業のための組織的受け皿としてのNPOづくりが一般的になったからである。この指定管理制度からのNPOの変化については、2008年(もう7年前!)にすでに田中弥生さんの著作をして、コメントを書いている。
NPOの行方http://totutotu.seesaa.net/article/105139234.html
NPOにとっての地獄のスパイラルhttp://totutotu.seesaa.net/article/105547084.html

つまりは、ボランティア組織の成長の先に事業型NPOというものは、単なる一つの選択肢ではないかとおもうのである。また、違う視点からも考えられるNPOは必ずしもボランティアを必要としない。(cf:「なぜボランティアか-―「思い」を生かすNPOの人づくり戦略-スーザン-エリス」

 もともと、日本型のボランティアは、その礎をいかした社協のボランティア組織が中心であった。そして、いまも、それは地域型については、かわっていないのではないか、というのが、私の所感である。もちろん、市民型仲介型ボランティアセンターが一定以上の存在感をみせている。それもわかっている。しかし、自治会型ボランティア組織を組織論的に脱せていないように思っている。

 秋元氏がいうようなリーダー論は、営利会社であれ、非営利組織であれ、組織的マネジメントを行わなければならないの組織であれば、必須である。私などは、本来はボランティア組織であれば、そういった一リーダーのリーダーシップではない、民主的なボランティア組織的マネジメントを尊重するような文化が一方で尊重されてほしいと思ってしまう。だから、私はこの世界では時代遅れなのだろう。
最後に、これも、ずいぶん前のエントリーだが、NPOの役割論として、紹介したエントリーをはりつけておく
http://totutotu.seesaa.net/article/94783792.html:アメリカ型NPOの危険性

(最後の紹介のblog内で紹介している妻鹿ふみ子氏の論文は「福祉社会の再構築 人と組織と地域を結んでに所収の論文ですhttp://honto.jp/netstore/pd-worklist_0602979668.html
posted by 凸凸 at 17:39| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

支援者のこぶしの中には「何もない」がいいとおもう

ご存じの方も多いと思うが、私はfacebookをやっている。
はじめは、何だろう?からはじまり、そのあとの東日本大震災の時にはほんとうにfacebookを大活用した。
その縁で、実際にお会いしたことのない「facebook友達」もものすごく増えた。facebookには賛否両論あるのも承知しているが、そうしてひろがった私のfacebookネットワークは閉じることもできず、だからこそプライベートネタや特定に偏った発言もできなくなり、そしてフルオープン(基本は全公開)で運用をしている。日々は、シェアネタが多いが、たまに、少し抽象的にだが、日々の中で思うことを少し長めに投稿したりする。
前置きが長くなったが、昨日の朝、ここのところのしんどい支援の続きの中で生まれてきた気持ちを少し抽象的に綴った。簡単にいえば、支援者の仕事は主体的に決定や選択をしていただけるための環境づくりであり、支援者がその人を左右してはいけないはず。という考え方が中心になっている。
facebookの記事のリンク↓facebookのアカウントをお持ち出ない方もお読みいただけると思う
https://www.facebook.com/shogo.tomita.75/posts/906290759450516?notif_t=like

 現場の仕事は、実はそう思いつつ、一定のプロセスを踏みながらも、結局のところ支援者が決定や選択をせざるを得ない事案が起こってしまう。そのことを私はものすごくしんどく感じている。責任逃れではなく、その人の選択や決定する権利を侵食してしまった懺悔だ。
 私のfacebookをみてくださっている方はいろいろな方がおられるので、立場や取り方もさまざまだ。
コメントをよせていただいた方がたのコメントをみても、それぞれのお立場、仕事、思っておられることによって、きっと受け止め方が違うのだろうなと思う。

 その中で、主体的であることを強いて決定や選択を設定すると言うこと自体がそのもの主体的でないのではなないかというコメントをいただいた。
 
 私たちは、「主体的」ということばを使うが、これは実はこれ自体が、「レトリック」である。
つまり、「つくられたことば」だ。主体的ということばが実際に、自らが誰からも命令や指示されることなく、という意味であるとするならば、実は、主体的であるということを強いられること自体が、象徴的であり、権力的であり、そして、イデオロギカルである。ことば遊びのようだが、主体的であることを他者からや社会からいわれることによって、主体的ではなくなる。
 
 しかし、私たちはそれをわかっていながら、「主体的決定や主体的選択」を支援するという。
それは、なぜだろうか。簡単にいってしまえば、運動自覚的に、主体的に決定したいと思うのに、主体的に決定できない人がいるから。そして、その犯罪的な行為をしているのが、支援者自らであるから。

 私はfacebookに書いた。
 
じわっとあけた掌を開き、じっとそこに目をやる。
その中に、人の人生の「何か」が見えてしまうような錯覚に陥る
そんな支援はしたくない。

 
 相手の人生の「何か」を自分の拳の中に入れてしまえるような、そんな錯覚に陥るような支援はいやだ。
相手との握手の中で、そのつながりのなかに、生まれるものはあると信じつつ。


 
posted by 凸凸 at 17:03| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月05日

何年かぶりにラグビーの試合をフルで見た

たまには、こんな話題もいいでしょう猫

先週の土曜日、ラグビーのW杯。日本対サモアをTVでみました。

たぶん、はじめから最後まで、フルで、ラグビーをみたのは、10年ぶりくらいやないかなぁ。
何しろ、そもそもテレビあんまりみないし、ケーブルテレビのスポーツ番組は、あんまりラグビーやらないし、もっぱらサッカーが多いし。

で、にわかラグビーファンも多いらしいですね。世の中。もりあがっているのかぁ

ルールが昔とずいぶんかわっているのは、きいていたのですが、ほんとうにかわっているんですね。
それにともなってずいぶん戦術もかわっているから、昔と同じようにはなかなかみれないって感じ。

シンピンって、アイスホッケーみたいとか
選手の交代もどんどんOkになっているのとか、昔からすると、びっくり。

戦術もずいぶんかわっているんですよね。
昔は、FWとBKの役割が固定化されていて、スタンドオフ(10番)が中心になっていてみたいな感じやって。大学選手権で、早慶明とかが中心になっていた時代によくみていたものからすると、隔世の感。

でも、日本が世界には全然通用しなくて、100点以上とられるのが、W杯ってイメージでしたから、ほんと、すごいなぁ。。

ヘッドコーチの「すべての選手がチームのために働いた」「規律を守って」ってことばは、日本民族のように体格に劣る民族の集団スポーツの世界との戦い方の目指すところなんだろうか、なんて考えましたね。。。
posted by 凸凸 at 09:16| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする