2016年02月19日

奈良 暮らしネットフォーラム

明日、2月20日 奈良で行われるイベントに登壇します。
山田優さんが体調不良でこられなくなり、構成がかわります。
なので、私の出番も増え、こんなメモをお配りさせていただきました。

『今問うべきもの 私たちの“仕事”とは』
           シンポジウムメモ
                     冨田昌吾(寝屋川市民たすけあいの会)

今日のために、いろいろな方がいろいろな思いをもって、このイベントが実現されましたことを感謝いたします。

何回かの打ち合わせの中で、廣瀬明彦さんを偲ぶような話ではなく、いま、これからを話をしようということが決まっています。
私と廣瀬さんの出会いや一緒にやらせていただいたことみたいなことは、実はあんまり思い出せなくもなっていて、一体いつに出会わせていただいたのか、なぜ、だったのか、思い出せない。ただ、最初のころに、相楽作業所で、優さんがきていて、北海道の伊達の大垣さんがきていて、青葉園の寺谷さんと滋賀の中島さんがおられたイベントがあって、その夜の懇親会で、廣瀬さんに「同年代でしょ?」っていわれたことが強烈に印象深かった。実際は一回り以上、離れているのに。

打ち合わせの中で、いろいろなお話を聞かれて、(シンポジウムの中でも聞かれると思いますが)一番、困ったのは「原動力」ということばでした。私の活動の「原動力」とは何か?
実はまともに答えられないです私。

公(おおやけ)的なことばを使えば、私たちの「仕事」とは、って話をすることもできますが、たぶん、それは今日、求められている話ではないでしょう。
「仕事」ってことを考えるときに、私が昔から引用する話があって。
それは内山節さんという哲学者がある本にかかれていた「仕事」と「稼ぎ」の話。
彼はある村に住むようになって、その村人たちが「仕事」と「稼ぎ」ということばを使い分けていることを知ったそうです。
ここでいう「仕事」とはそこに暮らすための「仕事」。お金になるシゴト、ではなく、暮らしをなりたたせていくための営みのような意味です。本来、暮らすことの中にあった「仕事」が、いまは、(難しい言い方でいえば、近代は)お金を稼ぐと言うことになります。

少し、視点をかえます。
日本の社会福祉制度のこの30年の流れを考えると、そこにいろいろとみえてくるものがありますよね。
みなさんはこの問いかけに何をおこたえになられでしょうか。
私は、ここでは、「市場」と「国」と「ニーズ」と「権利」という4つのキーワードをあげたいとおもいます。
ことばあそび的にきこえるかもしれませんが。
一般的な福祉制度の変遷の中で、よくいわれるのが、介護保険を期に導入された「福祉サービスの市場化」です。
正確に言うと、「福祉サービス」といういまではあたりまえに使われることばは、私が社会福祉を勉強しはじめた90年ごろは、全く一般的なことばではありませんでした。それどころか、福祉にサービス化はなじまないという論説が語られていました。
ここでいう「サービス」とは、市場サービスのことですが。
その頃から、「サービス」ということばとともに、「ニーズ」ということばも登場します。
 ニーズは、市場により満たされるものか?
 ニーズは、国(家)により満たされるものか?
この二項論はなんとなく、聞かれたことがあるかもしれません。
では、「ニーズ」は「権利」として認められるべきものとそうでないものがあるのか否か
という問いはあまりききなれないフレーズかもしれません。
 ニーズは国(家)や市場により、すべて満たされるものなのか?(ここではべき論ではありません)どう思われますか?
 私も勉強不足でこの門答にどれだけの方がきちんと挑んでおられるのか存じ上げないのですが。

 身近なところで考えてみましょう。
 いまの福祉サービスの提供で、すべての人のニーズが満たされるでしょうか?満たすことができると思われますか?
 そんなことできるわけがない。→人もお金も足りないから
いや、ちょっと、待ってください。ここでの話はそういう話ではないです。もし、仮にご本人が望むサービスを制度的に保障し、福祉サービスが提供できた場合です。
 どうでしょうか。

 私は大阪の北の方の街の出身です。中学時代に公立の中学校のクラスに重心の友人が通ってきました。同じクラスになったときに、そのクラスには黒板の横にベッドがおかれ、そこに「彼」は通ってきていました。通学は友人たちが手伝って。その「彼」とのかかわりから、いわゆる障害のある人たちとの交流が増えました。「彼」は卒業をすることなく旅立ってしまいましたが。集会にもいきましたが、正直、あまりいい思い出はありません。きれいごとではなくシビアさを突きつけられます。思春期に、同年代の二重三重の差別をうけていた方から、「おまえはいつでも逃げられる。俺は、自分の生まれから逃げられない」とことばを投げつけられました。ものすごく印象に残っていることばです。「私が私として何ができるか」それは、漠然とした不特定な人としてではなく、「特定な(の)私」を要求されました。
 一方で、「特定の私」には限界が当然あります。一人でできることには限りがある。
 そこで悩むわけです。悩みませんか?

 「顔の見える関係」ということばがあります。福祉の世界の中では、なぜかこのことば金言ですよね。「サービス」ということばを嫌っている人たちも「サービス」ということばに乗っかって活動・事業をしている人たちも、両極端に見える群が両方とも好んで使っているように思います。不思議ではないですか?
 「サービス」ということを考えたときに、ある「goods(日本語では商品と訳されますが)」を介して取り結ばれる関係に付加される価値として、考えられる「もの」があります。
 10年くらい前かに、当時のマクドナルドの社長さんとセブンイレブンジャパンの社長さんの対談を読んだことがあります。ファーストフード対コンビニの対決対談のような記事だったかと思います。そこで、マクドナルドの「無料のスマイルによって私たちは勝ち組になれる」というような主旨のことが語られていました。日本中どこにいっても、同じマニュアルで同じ服装とオペレーションで同じ笑顔が勝ち組になる、と。
 私くらい以上の年代の方で介護保険前夜を経験している人は、これとおなじような話を当時きかれたことがある方もいらっしゃるのではないかとおもいます。2000年当時のコムスン(当時)のTVコマーシャルです。そういったベースとしてのサービス。サービスの均質性は、消費されやすい一つの「売り」(キラーコンテンツ)です。安心を売るということになるかもしれません。

 しかし、それだけでは現在の競争社会では生き残ることができない。サービスとしての付加価値を高めないと、市場では生き残ることができない。それが特に個別性が高く密室性、近接性が高いヒューマンサービスでは、個別的なニーズに対応すること=付加価値になります。なので、コマーシャルとしての「顔の見える関係」になります。

 一方で、国(家)や市場は、私たちの社会生活として考えると不完全なものです。権利として、義務化されたものとして国(家)に求めても、市場から購入をすることをしても私たちの社会生活のニーズを完全に満たすことはできないといわれています。その一つが「顔の見える関係」です。つまり、愛情であったり、対等な人間関係などは、国からも市場からも得ることはできませんが、私たちが社会生活を営んでいく上で持っている固有のニーズです。

 はじめに引用させていただいた「仕事」と「稼ぎ」の違い
では、このシンポジウムのテーマである「仕事」とは何か。
 一人一人の自分の中に、内面的に二面性を内包させるのか、否か。
答えはないと思いますが、ひとりひとりの答えを求めるプロセスの考えるヒントはそんなところにあるのかもしれません。
posted by 凸凸 at 23:02| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月06日

福祉と福祉サービスの「対象化」ー「崩していい前提」と「崩してはいけない前提」と−2

 前回のエントリーの最後が、みんな混乱しているのではないか、と書いた。

 福祉の「対象化」。

 古くから言われている話だが、最近、あんまり話題に上らないのだろうか。学会関係、研究関係からは私自身がとーんと離れてしまっているので、その世界では議論があるかもしれないが。

 福祉制度は、もともと資本主義経済社会の中で生まれてきた補足的な制度であるということを大前提として、その対象は、制度的に補足される「対象」と潜在化している「対象」とがある。たとえば、公的扶助(日本で言う生活保護)は「捕捉率」ということばを使う。

 実は、潜在化している「対象」もその制度でサポートするべき対象と、必ずしもその制度でサポートする必要はないが、他の制度との兼ね合いでサポートするべき対象がある。というのが、歴史的に社会福祉論の中で議論されてきた「対象論」だ。目指される議論として、できるかぎり、対象を対象化することによって、生活のサポートが広く行われるようにという方向性になっていくのだが、社会の流動性と構造の変容の中で、これだけではなかなかピンとこない議論になっているのかもしれない。

 加えて、この議論は、社会保障と社会福祉が混同、混乱しがちな議論でもあり、(本来は社会福祉制度は社会保障制度の一部なんだけど、日本ではどうも社会保障というのが通りが悪い)、かつ、介護保険以降日本の福祉が社会保険制度【的】な仕組みを採用していたりするから、さらに、ぐちゃぐちゃになってきている。

 対人援助サービス(イギリスでいうSocial Servicesを意識してここではつかう)が、一般的には福祉というイメージで語られる日本の中で、社会保険【的】な仕組みの中で提供されるものになってくる中で、だんだんと「サポートする対象」というイメージ自体がアンダーグラウンドな議論になっているように思う。

 一方で、福祉サービスとして、サービスが提供されるということは、利用者はそこに現実的に自己負担を払う払わないということにかかわらず(実は実際に払うと払わないでは、かなり消費者意識性が違うのだが)、「消費者」として、関係性をもつことになる。
 【サービス−消費(者)】という関係は、実は対象化の議論は、背景におしやられてしまい前面にはでてこない。この構造の中では、消費することにより、間接的に「対象」になる。

 さらに共通するのは、福祉や福祉サービスは、あくまで申請による。制度政策として、想定される対象は設定されるにしても、対象化されるわけではない。

 社会保障制度・社会福祉制度の中で、対象化される仕組みはこうしてできあがっている。そして、専門家とよばれる人たちがその制度の装置として、「タテ-ヨコ」つまり、専門的に設定される対象と制度設計的に想定されている対象を捕捉する役割を期待されて、整備される。

 もちろん、その専門家たちには、ソーシャルワーカーのようにアクション機能をもっているものもいるから、その対象を制度的な枠を超えて、問題や課題を抱えている人たちをして、訴えていくことはできうる。

が。しかし、それは、福祉という狭い枠に押し込めるものではないはずだ。

みな、忘れているのか。
福祉は制度による管理なのだ。
救済は慈善だ。

それを知っていながら、なんでも福祉(制度)に投げてはいけない。それが「崩してはいけない前提」だと私は思う。


 
posted by 凸凸 at 08:35| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月04日

「崩していい前提」と「崩してはいけない前提」と

土曜日に東京に行かせていただいての話は、前回のエントリーに書かせていただいた。

FB上では、いろいろなやりとりがあって、SNSのある種の醍醐味というか、があって、それがリアルにも少しつながって、という感じだったりする。私のFBは基本は仕事用になっているし、でも、下の世代のみなさんのような強力なツールとして意識的に活用しているものでもないので。

BLOGなぁ、と思いつつ、外に出ていろいろな方にお会いするとBLOG読んでます。といっていただけることもあって、細々ととは思っています。

土曜日のふわりんクルージョン2016の内容は、全体の概要としては、ここでいうことではないし、まぁ、また、介護保険と障害福祉の統合の話も政治家の方の口からあーしてリアルにきくと、一方で社会保障制度そのものの話とリンクして、きかないといけないことが深化してきたなぁと思う。ちょうど、12,13年前に講演によくいかせていただいたときに、支援費制度をして障害福祉施策も社会保障の一制度として、組み入れるんだという視点をもってくださいとお話していたことが、思い出される。

もうひとつ、タイトルにあげたまたしてもいつもの禅問答のような、ことばあそびのような話。「崩していい前提」と「崩してはいけない前提」

今回、私が話をさせていただいた話題の「未受診妊婦さん」の話。
福祉の人たちは、福祉が「対象を対象化」しないと成り立たないことをどこかで忘れたいのか忘れようとしているのか、と、思ってしまう。それは制度の対象という狭い枠組みではなく、それは「崩してはいけない前提」なのだと思っている。福祉の限界は対象化であるというのは、崩していい前提ではない。
一方で暮らしや生活は、枠組みは制度で決められるものではないので、いろいろな前提は崩していい前提なはずなのだ。
そういう視点でたてば、未受診の妊婦さんの課題は、福祉や保健の制度としてできることと、その制度の枠組みでは、できないことがあると思うのだ。

未受診妊婦さんの話とは違うが
どこかのNPOのリーダーの方がいうような「福祉は風俗に負けている」という挑発的なことばを、福祉の関係者は、真っ正面にうけとめつつも、きちんと反論できないといけないように思う。だんだんと、混乱しているように感じる
posted by 凸凸 at 08:23| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする