2016年09月29日

専門家時代の幻想から「専門職まがい」の空想の時代へ

 近代化され、専門化されたサービス・システムに本質的に内在する、「愛」と「ケア」という仮面をかぶった特権的な専門家・専門サービス担当者(教師、医者、カウンセラー、弁護士・・・等々)による、人びとを無力化し、人びとの能力を奪う、人間破壊的「援助」について。
(イリイチ)

いまさら、イリイチでもなかろう。
ポストモダンとかなんとか、よくわからない「哲学的あそび」のような議論は、一部の「もてるもの」の遊びでしかない、と。

30年前にアメリカ的文明社会の批判は、10数年前に日本で「ゲンジツ」化し、あたりまえのように私たちの生活に根付いた。

21世紀を目の前にして、いま「失われた20年として」語られる日本のバブル崩壊後の社会は、深化したものとしての高度工業化社会を一気に推し進めたのだろう。と、同時にこれから数十年後に起こる「日本」という国(そのころに「現代国家」という形態が残っているという前提で)の人口再生産の適正的規模=すなわち、人口ピラミッドがほぼ円柱型になるような=時代を想定して、いまからいわゆる団塊の世代に対する「ありがとう」ということばと、「ある一部分」の経済的賦与が行われて、そして葬られていく時代を迎える。

その「世代的一掃の時代」に、「医療的社会」「医源的社会」は中心的アイコンとして存するが、その実、狭い意味の医療は、「医療技術の進歩」という幻想的人間社会の進化を表すものにすぎず、それは宇宙を研究する科学と同義にしかすぎなくなる。これからの「医現的社会」は、中心的アイコンを「健康」にシフトさせてきているのだ。

 今現在、日本は高度に専門家された社会になった。特にそれは、社会保障費という「見せかけの経済」に巣くうように仕組まれた専門家を大量生産した。90年代、工業化社会をベースにした経済成長は鈍化をみせ、新たな産業として、「情報化社会」とともに「家庭外部化社会」を私たちは選択した。シャドウワーク、アンペイドワークといわれる貨幣の媒介をおこなっていなかった労働を貨幣化するために、私たちは専門家を作り出すことによって貨幣化し、「愛」と「ケア」の仮面をかぶる特権階級的専門家を数多く生み出すことに成功してきた。
 しかしいまとなってみな気づいているように、それは単に「団塊の世代」を葬送するために一時的に作られた高度専門家社会でしかない。その財源は枯渇し、姑息的に延命措置的な政策を繰り返すのみである。
そして、税金と二次的税金(社会保険)によって構築されてきた医現的社会は、そういった社会の【シト】として「愛」と「ケア」を仮面的に提供する専門家に、ズブズブにされたのちに、健康というアイコンをみな自己責任で購入しに走るのだ。

ああ、なんということだ。

「健康はすばらしい」と、ほぼだれも否定できないアイコンを、今後は制度的ビジネスではなく、市場的ビジネスから、「愛」と「ケア」の仮面をかぶった専門家といわれる人たちから購入していくのだ。いや、もうしているのだ。そして、そこに空想的社会が広がっていく。【現代国家】の幻想とともに。

posted by 凸凸 at 00:00| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月27日

医療福祉の専門職は今後どうなっていくのだろうか

今年は、平成30年度の介護保険等を改正を踏まえて、その後の大きな議論をして、いろいろと指針が出されている。

介護保険、医療保険、障害者福祉などの制度の変更、場合によっては統合とともに、人材についての議論も、大きな転換点を迎えている。

経済諮問会議で厚生労働大臣が提案した資料の中で
http://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/minutes/2016/0511/shiryo_06.pdf
医療・福祉人材の最大活用のための養成課程の見直し P4
は、専門職の屋台骨をゆるがす大きな指南である。

○ 医療・福祉の複数資格に共通の基礎課程を創設し、資格ごとの専門
課程との2階建ての養成課程へ再編することを検討。
○ 資格所持による履修期間の短縮、単位認定の拡大を検討

介護保険制度施行以後、医療福祉の人材、専門職が「コンビニ化」してきているという批判がある。
専門職養成学校は、人材的ニーズを最優先し、たくさんの人材をだすために、教育の厚みよりも人材の輩出に腐心する。教育課程は、即戦力になるように変更され、卒業して何年も臨床知を積み重ねるのではなく、コンビニ化した普遍化したまがいものの「エビデンス」治療にのみ重点化してきた。また、制度は、専門的な治療ではなく、専門家による治療、専門的治療器具による治療に点数をつけてきている。

その流れの中で、いよいよ専門職の屋台骨を揺るがす改正をおこなっていこうというのだろう。
専門職集団は、結局、本来的に自分たちの専門職アイディンティを保持することができず、即時的な既得権確保をむかうのだろうか。

ユーザーからしてみれば、そんな専門職はいらない、のであるが。




posted by 凸凸 at 07:07| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月25日

「従属的」で「抑圧的」な賦与される「権利」

「サバルタンは語ることができるか」
もともと、ばおばぶの五十嵐さんに教えていただいた本である。

ここのところの「また」というネット上での大騒ぎに辟易している。

「大衆」の威を借りて、「国家の経済的危機」というレトリックを使い、「従属的」なものたちを「抑圧」化する言説があとをたたず。言説が言説でなくなる事態までが起こる。

だんだん、「想像力がない」というコトバでは語り尽くせなくなってきた現状に憂う。

これは、最近、「社会活動家」といわれる方にも感じる違和感に通じる。○○の手法を使い「社会課題」を解決する。「社会課題」は、「個人」の中にはない。なのに、語られる言説は、どうも「社会課題」を抱える個人を「変える」という方向にいっていないか?ターゲッティングがおかしくないだろうか?

社会全体が表面上穏健な状態を求めているから、「権利」はいつも賦与されるものでしかない。そんな社会では、結局は「従属的で」「抑圧的な」ものは、語るべきことばを持たない。だからといって、センセンショーナルなジャーナリズムをまとったインパクト活動も個人的には好まないのだが。。。

posted by 凸凸 at 07:18| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする