2020年02月29日

奈良 くらしネットフォーラム5

暮らしネットフォーラム5〜廣瀬明彦氏を囲んで〜『この国は、ほんまもんの「共生社会」へ向かっているのか?』

日  時:2020年2月29日(土) 10:30〜16:30
場  所:奈良県社会福祉総合センター 6F第ホール

お話しをさせていただいたときの資料(配布)と映写したパワーポイントです

奈良2020.pdf

私たちの「生活」は、「計画」という管理、と、限られたフレームの確率統計のに支配されている

〜勘と経験と賄賂の世界から脱した世界は、どんな世界なのか〜

※一応、福祉っぽい視点で話します


・いまや医療近接領域となった「福祉」「介護」。コメディカル(パラメディカル)の一分野として語られることもしばしば。

そして、医療の世界では「エビデンス」に基づく医療=EBMが当然のように席巻している。

カナダのソーシャルワークの世界から「エビデンス・ベースド・プラクティス=EBP」なんてことばも入ってきているらしい。


エビデンス(EBM)を日本に紹介したお一人の齋藤清二さんの最近のtwitter @SaitoSeiji


・また、日本の福祉は政策的な決定にもとづいているが、最近、日本の政治政策の世界も盛んに「エビデンスに基づく政策」ということをいいはじめた。

さらに、福祉計画を中心として、計画的に政策を行っていくことがあたりまえになり、その検証サイクルとして、PDCAが活用される。


・福祉分野で勉強をしてきた人たちは、ソーシャルワークプロセスというものを学んだことがあるのではないでしょうか


ソーシャルワークプロセスとは


日本にケアマネジメント、ケースマネジメントが紹介される前の時代の社会福祉援助技術の本をみると、実はソーシャルワーク(ケースワーク)プロセスに、「プランニング」はでてこない。


・また、間違ってはいけないがソーシャルワークプロセスに「プランニング」が理念的に導入されたあとも、「支援(者)の計画」としてのプランニングはでてくるが、「本人の生活の計画」に支援者が介入することなどは想定されていない。

☆いつからなぜ、本人の生活が計画されるようになったのか。


個別支援計画と個別援助計画の図


PDCA 品質管理から行動管理へ 行動の管理の方法 行動心理学や行動経済学の応用分野として

C→A→Pの流れは行動修正にむいている。ただし、その場合は、P1→P2がスモールゴールになりがちで、フレームを形成する

なので、クリエイティブな分野ではPDCAは不向きであり、企業の開発戦略、成長戦略の場面では使われなくなっている。


ところが、このPDCAにむいている分野がある。日本の行政政策である。

そして、その政策がさらにすすんで採用しているのが EBMPである


私たちは行政との政策場面で、こういった話に遭遇することが増えてきている。

しかし、指摘があるように そもそも、エビデンスに基づいての政策があるのかということにさしあたる

「エビデンス・ベースド・ポリシーなんていうものはマーケティングでしかない」

資料 https://link.medium.com/i2tC6AzLf4

「ほんとうにエビデンスにもとづいた政策などというものは存在しない

モデルがあってはじめてデータは役に立つ」 Kan Nishida Feb 26, 2019


そして、もともとエビデンスということばが生まれてきた医療の分野でも

資料「エビデンスで殴る」というやり方は、なぜうまくいかないのか

「エビデンスに基づく医療」から考える 斎藤 清二 立命館大学特別招聘教授

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/66820


もちろん、PDCAやエビデンスが全く意味のないものであるということがいいたいわけではない

もともと、なぜ、PDCAやエビデンスが生まれてきたのか。

科学的と言いながら権威によってその科学がうまれていた時代

科学的といいなが、経験によって科学が生まれていた時代

計画的といいながら、場当たり的なことが繰り返されてきたい時代

そんなアンチテーゼから生まれているコンセプトであることは注意しなければならない


しかしそのエビデンスが、権威主義的で、盲目的に活用されるのであれば、科学がエビデンスにことばとしておきかわっただけであり、そもそもの批判になにもこたえていない


エビデンスの裏側


※行動経済学の脅威 

https://courrier.jp/news/archives/99941/?ate_cookie=1581480263

posted by 凸凸 at 23:10| 大阪 ☔| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月19日

「地域文化」とは何か 連Twi

「地域」文化とはなんだろうか?マスコミことばで使われる「県民性」とはなんだろうか?大学時代からずっと「地域」にこだわってきた。研究も実践も。この10数年その中でも「local」にこだわってきた。あえてこだわってきた意味は?暮らしぶりが見えること「地域の顔」が見えると説いた。
「地域の顔」が見えたとき、地域文化の消失に気づいた。動ける人は動き、自然から離れていく。コミュニティは形成されるがlocalからは離れ金銭だけを媒介にしたものになり、地域文化はなくなっていく。ちょっと待て?それは本当か?失われていくと感じた文化は本当に「文化」か?そもそも虚像では?

風土や水土。日本人が自然との共存の中で培ってきた「文化」は人が大衆や群衆が集まることによって練られた「文化」にとって変わられきたのではないのか?そこには、土の匂いも自然への畏怖もなく、そこに住むことのみ風や土、そして水に触っているだけではないのか?護るべきは文化ではなく慣習に。

慣習は「既得権」になりかわり、自らの生の文化を抱きしめながら死を迎えるのでなく、生の文化すら「得」に変え、そして病院で「患者」になり消えていく。生と死の循環は自然との共存の中にのみあり、残すべきは文化であったはずなのに。残すべきは金銭になり残すべきは閉鎖的な「家族」になった。

閉鎖的な家族たちは慣習を作り、生産し、消費していく。森を喰らい、文化を雲散霧消する。それでも私たちは幻の中。localなエリアに地域の文化を信じる。作られた消費文化と単なる物理的な近接性というマヤカシに支配される。肌が触れ合うような人の距離はデジタルの世界の中でどうなるのだろう?

現実社会とデジタルな仮想社会。誰かこの二項対立を描いた?いまや仮想社会でもあたたかさやにおいまでも感じることができる。仮想社会のコミュニティと現実社会のコミュニティ、そこにはまだ対立があるのか?それともいまや親和性の世界か?仮想社会にlocalは存在しないはずなのに。

そんな仮想社会は、慣習を乗り越えるのか
再生産するのか?
そこに、地域はあるのか?
そこに、文化はあるのか?
地域文化とは何か?
posted by 凸凸 at 07:11| 大阪 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月03日

「共感」とクラウドファンディング そして 仮想空間としてではない「クラウド」世界

クラウドファンディング
wikiの紹介文を引用すると次のようにかかれている

クラウドファンディング英語:crowdfunding)とは、不特定多数の人が通常インターネット経由で他の人々や組織に財源の提供や協力などを行うことを指す、群衆crowd)と資金調達funding)を組み合わせた造語である[1][2]。ソーシャルファンディングとも呼ばれ[3]、日本語では「クラファン」と略されることもある[4]

日本人の中には「 l」と「 r」 の区別がうまくできない人がおり、「クラウドコンピューティング(cloud computing)」の「クラウド(cloud)」と混同して ×「cloud funding」と誤表記してしまう人もいるが、これはあくまで誤りであり、正しくは「crowd」である。

寝屋川市民たすけあいの会もクラウドファンディングを行っているし、私のSNSをごらんいただいている方たちはいくつかのチャレンジを応援支援しているのでなじみ深い方もおられるだろう。

本格的に日本で展開されてから10年くらいといわれている。私がかかわることが多い「寄付型」は実は少なく実際は商品開発型やソーシャルファンディングと位置づけられることが多い投資型のプログラムが多い。

寄付型でいうと「READY FOR」と「CAMPFARE」が大手になる。

その「READY FOR」のnoteにこんな文章が掲載されている。

「共感」でお金を集める時代は終わった? 2020年代のクラウドファンディング論

共感でお金を集める、新しい資金調達の形ーー。

クラウドファンディングは、日本にその仕組みが輸入されて約10年、しばしばそんなキャッチフレーズで語られてきました(*1)。

でも2020年、そろそろこの言葉から脱しても良いのではないかと思うのです。

 

そして、その内容の巻末に以下の三つの「共感」に関する文章が紹介されている。

例えばnoteの記事では、これらが記憶に残っています。
https://note.com/yokogao/n/ned6c8a9c64d0
https://note.com/ahs345/n/nc3f219fca60d
「共感」という言葉は使われていないけれど、この記事も。
http://apartment-home.net/long-visiter/border/

文末に

この先の10年は、まずは「共感」という言葉の重石を外して、クラウドファンディングがさらに多様な手段になるように、可能性を模索していきたいと思っています。

と、作者の意図が説明されているので、発信のねらいは理解できましたが、正直、このタイトルには驚かされました。

もちろん、作者がひいた巻末の3つの文章を読んだときに【共感】と【理解】についての思いや対人関係のなかでの【わかる】という「共感」「同意」の暴力性、また、ポリコレ的多様性理解が深まっていくときにおこる悲劇的アイデンティティクライシス。

しかし、そのことがある種の「クラウドファンディング」に近い(あえてコントロールできるとはいわない)キューレーターの公式的な投げかけとして受け止めがたい発信として私自身にはひっかかりがあります。

あえて、文頭にwikiの文章をひきました。そこに、クラウド(群衆)とクラウド(コンピューター 雲)を混同する人がいるという指摘がありますが、このエントリーのタイトルはまさにそれを逆手に使っています。

実際、クラウドファンディングの世界はいまやインターネットをなしには語れません。ReadyforはFACEBOOK、campfareはfacebookとtwitter、LINEというSNSにひもづけされてきました。しかし、congrantなどの新しいサービスはSNSを必要としません。そもそも論で言えば、インターネットがどんどんと仮想社会から日常社会に降りてきている今、クラウド(群衆)性がより高まっているといえるのではないでしょうか。つまり、あらためてのインターネット上の「匿名性」を「群衆」におきかえる可能性がたかまっていると思うのです。

くりかえし指摘がされるようにSNS、とくにfacebookは親和性の高い人たちとの結びつきを指南しています。つまり、共感を得やすい、思想性や思考性が近い人たちを仮想世界でも実現するシステムです。それにクラウドファンディングの世界も依拠してきたように私は思っています。(もちろん、この考え方は偏っているといわれる方もいることも承知しています。)しかし、クラウドファンディングそしてSNSを使えば使うほど、考え方の違う人たちとふれあう機会はかなり無理をしないと難しいです。匿名性の高いtwitterではありうりますが。

このnoteの作者がいわれるように、クラウドファンディングが共感という重い石をはずしていくとするならば、そこにある方法論はクラウド(コンピューター)世界を実社会におとしこめていくことを試行することにもなっていくと思います。もちろんそれはインターネットがそもそももっている可能性にもなるでしょう。しかし、それはたとえばソードアートオンラインの世界観のなかにある危険性を孕みます。つまり、仮想社会と実社会の可逆性をみとめていくことにもなります。

日本の寄付文化の醸成を25年以上前からみてきたものとして、日本には残念ながら寄付文化は醸成されましたが経済的にその余裕がなくなったと感じます。クラウドファンディングをみても、寄付をする人たちは同じ人たちばかりです。寄付をする人としない人にはやはりクレバスが存在していると感じます。それをできる限り乗り越えていきたいそんな意気込みをこの文章から感じながら、あえて、共感をつくりだすための仕掛けを考えていきたいとおもっています。

posted by 凸凸 at 06:35| 大阪 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする