あまりしたくない話ではあるが。成年後見利用促進法が成立しその関連で後見人の権限を拡大する民法の改正案が国会で通った。
重度の障害のある人の支援もしている私たちとしては、後見人(保佐人)も含む方たちとの日常的なやりとりは、もちろん、福祉医療の現場での、よくわからない理解の中で、また、この社説にもあるような原理原則のご本人の意思決定を尊重するという話と、現場のそうはいかないような混沌とした現実の中で、とても悩ましいと思う。
琉球新報 社説 http://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-252943.html
最近、よくあるのが、医療の現場での後見人=家族というような扱われ方である。もちろん、私は医療の現場をしらぬわけではない。
病院にいくと、よく目にするのは、患者・家族と医療者がともに、治療にとりくんでいくというスローガンだ。
そこで思うのは、やはり、医療にアクセスをするのには、患者が医療者と意思疎通ができ、家族がしっかりいるという前提なのだ。しかし、現実はそうはいかない。単身世帯がどんどん増え、そして、認知症のお年寄りも含め、意思疎通の成立しにくい方はどんどん増えている。
インフォームドコンセントということばが市民権を得て久しい。しかし、そのことばが医療者の間に浸透するようになればなるほど、すべての情報は審らかにかつストレートに遠慮なくご本人に伝えられる。それを決定せねばならないのが、いまの医療の現場である。言っておくがここで、医療者を責めているのではない。いまの日本の医療システムがそうなってしまっている。
「ご家族の方はおられますか?」
「いえ」
「あ、でも後見人の方がおられます」
「では、後見人の方にきてもらってください。いつくらいに来られますか?」
その流れで、日常的なこともすべて、後見人に伝えようとされる。
まさに 後見人=家族 だ。
確かに後見人業務の中には、身上監護という役割がある。しかし、すべての後見人、保佐人が家族のような役割をするかといえば、そうではない。それよりも、私たちのような役割のものが日常的に支援をしていて、生活をよくよく知っていることも多い。しかし、その意見はなかなかにとおりが悪いようだ。
今度の制度改正の中で、医療同意権も付与されるときく。しかし、果たして、そんなことが後見人にできるのだろうか。誤解をまねくかもしれないが、日常的に支援者とよくよくコンタクトをとり、支援の方針の共有ができていれば、できうるだろう。しかし、現実はどうだろうか。
今回の改正にともなって、当事者団体などから、意思決定支援の仕組みがなく、本人の権利を制限するような成年後見制度を利用促進する前に、改正をするべきだという意思表明が多く出され、先に紹介したような社説も毎日新聞、東京新聞とでたようである。
しかし、ここでも現場の苦悩は、解消されない。
もちろん、意思決定支援をしたい、しかし、現実には客観的にみると生活できない状況をのぞみつづけ、救急車で病院に運ばれては、自宅にもどることをくりかえしてしまうようなケースも数多くあり、共同生活をまったく受け入れない人たちは数多い。それが認知症の方になれば、後見制度をつかった本人の意思を制限してと考えてしまう現状なのだ。なぜ、そんなことがおこる?
私はそんなことをしていないとは言わない。実際に、しているかもしれない。なぜか
正直にいえば、圧倒的に、地域で生活しうる環境がいまや整わないのだ。制度はガサガサ、かりに制度をうまく使えるだろう人でも、人が不足して支えることができない。ベストはチョイスできない。本人の意思をストレートではなく、家族、地域をみて、客観的に本人の意思をコントロールしたいと思ってしまう。それが地域の現状ではないだろうか。
そんな現状の中で、成年後見制度の権限が拡大すれば、どうなるか、そんなことは日の目をみるより明らかだ。
しかし、それが医療モデルの地域包括支援システムを成り立たせるために必要とされているのだとしても、現実に押しつぶされている中では、そこに拠るしかないような気さえする。
ケアマネや相談支援専門員が「人生」を背負わされることもおかしいと思うし、それが後見人であることも違うと思う。まさに日本的といわれてしまうような仕組みをなぜに作っていってしまうのか。
理想を語り、理念を謳い、足下の現実は地獄でも困るが、理念を語り、理念を謳えないような現実こそが問題ではないのだろうか。
2016年04月09日
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