2016年10月31日

障害福祉制度の改革も財務省主導?

 平成30年度の社会保障制度の各各の改正にむけて、国の社会保障制度の改革の指針が昨年出されていて、それに従っていろいろな国の審議会や検討会などがたちあがっているようです。

 関係諸氏は一定の危機感?も持ちながらもどちらかといえば、3年ごとの「いつもごと」のような感じを思われている感じもなきにしもあらずではないでしょうか。(運動団体は別でしょうが)

 しかし、この平成30年改革はかなり大きな改革になり、また、それぞれの制度の改革というよりも国の社会保障に対する仕組みの本気度というか、そこへのアクションの仕方が、いままでは違うのではないか、感じる。

 医療制度については、この間、facebookの方で発信させていただいているが、かなりつっんだ議論がされているのを紹介している。

 その議論をみていても、今回の平成30年度の改革についてはこれまで以上に財務省主導の改革方針がみてとれる気がする。あくまでもこれまで以上に、であるが。
 大西蓮さんが生活保護の母子加算の見直しの議論への危機感をかいておられるが、
 https://www.facebook.com/ohnishiren?fref=nf

 この財務省の資料の中で、障害者福祉についてもかなりつっこんで書かれているので、以下、紹介する。
http://www.mof.go.jp/about_mof/councils/fiscal_system_council/sub-of_fiscal_system/proceedings/material/zaiseia281027.html

ー抜粋ー
障害者支援予算の他の社会保障関係費と比較した特徴
○ 障害者向け予算は、サービスを受ける障害者の数の増加等を反映し、この10年間で2倍近くに増加。その伸び率は、社会保障関係費全体の伸び率の約2倍。
○ 障害者向け予算は、他の社会保障関係費と異なり、高齢化のみではサービス量の増加を説明できない。このため、厚生労働省においては、その要因分析や実態把握が必要だが、その取組は十分とは言えない。
○ 利用者負担が非常に少ないことも特徴であり、コストインセンティブが低く、供給サイドによるサービス増加が起こりやすい。このため、支給決定を担う市町村等は、サービス供給の必要性や内容についてしっかりと精査する責任・役割を担うと考えられる。

分析視点例@:サービス供給量の状況
○ 利用者負担が非常に少ないため、サービスの供給量が多くなりやすい構造。
○ このため、利用者のニーズについて随時把握する必要があるが、厚労省における実態把握は十分とは言えない。
打ち上げ花火 包括的な調査(「生活のしづらさ調査」)の実施は低頻度(5年に1回)。
打ち上げ花火 各利用者のサービスの利用状況(類似するサービスを重複して受けていないか等)も、随時把握するシステムでない。
○ 平成23年の調査では、@「福祉サービスを利用したいが利用できない」手帳保持者の割合は2.1%に留まり、A「利用している者」に対する「利用したい者」の割合も37%に留まる。一方、利用者数は24年度以降も大幅に伸び続けている。
○ 平成27年4月より支援の全例について必要となった「サービス等利用計画案」の作成を担う「計画相談事業者」について、サービスの供給を担う事業者からの「中立性」の確保を推進していくことが課題。

分析視点例A:サービス供給量増加の制度的要因
○ 障害サービスの供給主体である事業者は経営体でもあり、利用者数の増加により収益の向上を求めるのは合理的行動。
○ 事業者にとっては、@支援区分が不要であり、A利用期限がなく、B収支差率が高いサービスほど、安定的な利用者を増
加・確保しやすく、収益も向上させやすいと考えられる(注:要支援の程度が低いほど潜在的な対象者が多いと言える)。
打ち上げ花火 「支援区分不要」のサービスの伸びは、平均的なサービスの伸びを大きく上回る。
打ち上げ花火 「サービスの平均的な支援区分の低さ」(支援区分不要や潜在的な対象者数等を反映)と給付額の増加率は相関。
打ち上げ花火 「収支差率」の高さと給付額の増加率も緩やかに相関。
○ なお、障害者施設は、介護や保育施設に比べ、労働分配率が低く、利益率が高い(良い経営状況)とのデータもある。

分析視点例B:事業者へのインセンティブ付けの在り方
○ 利用者負担がないことは、サービスの質の確保にも供給サイドへの考慮が必要であることを含意。報酬設定における適切
なインセンティブ付けがなければ、質の低いサービス供給につながり得る。
○ 例えば、増加する就労支援の報酬体系においては「利用者が増加するほど、事業者の利益となる」一方、「一般就労への
移行や賃金向上へのインセンティブ付けが十分でない」。また、報酬水準が高く、支援区分も不要。
○ こうした状況の下、実際に事業者による不正受給の事案が問題化。放課後等デイサービスにも同様の問題を抱える。

-抜粋終わりー
詳しいことは資料をみてくださったらいいが、この資料で指摘されている点は、30年の改正について一定反映されることが予想される。
相談支援についてもここで、「中立性」がでてきているし、このままでいけば、訓練等給付を廃止もしくは、訓練等給付にも障害支援区分の導入。就労継続支援の有期限化なども考え得ることにもなるかもしれない。
市町村の権限強化ということをどうするのか、現状の市町村の状況を見ると制度変更無しに市町村の権限強化はできないから、区分にあわせての給付制限の仕組みなどを考えていくこともでてくるかもしれない。
なんにせよ、今後社会保障審議会障害者部会などでの具体的な議論になっていくだろうが、目が離せない議論になっていくだろう。




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2016年10月30日

地域での貧困の世代間連鎖をたちきるための新しい動きをはじめることにしました

 2000年ごろから私となんらかのつながりをもっていただき、当時の講演をおききいただいている方たちはご存じだと思いますが、私が活動している大阪府寝屋川市。

 大阪市の衛生都市として、高度経済成長期に発展をし都市化が進んだ地域ですが、同時にいち早く貧困化が進んだ地域でもあります。それこそ旧然の都市化理論そのままで、ドーナツ化の周辺部分がスラム化したといってもいいでしょう。「地方から流入した安価な労働力がそのまま経済力を高められず定住した地域」という地域特性を市域の中に多く持ちます。
 私の感覚ですが、2000年頃にはもう、貧困の第1代世代間連鎖(保護家庭のこどもが保護になっていく)ということがはじまり、生活保護から抜け出せない家庭がみられるようになりました。そして、その後、その状況は拡大しいまや第2代世代間連鎖がはじまっていき、深度がふかまっていっている気がします。

 以前から大阪の寝屋川市と他地域でお話をすると、「きいたことあります」「あー、最近、虐待でこどもがなくなった事件があったところですよね。。。」
 虐待の多い地域です(虐待は発見のアンテナ課題もありますから、それだけ地域で虐待に対してのアンテナが高いということでもありますが)。

 いつも言っていますように、寝屋川市はそれほど福祉が進んだ地域ではありません(よく勘違いをされます)。確かに、障害児の早期療育システムは行政を中心に構築されていますし、精神障害者の地域医療では、このあと紹介する三家クリニックを中心に行われています。また、社会福祉協議会の福祉委員制度などは先駆的に行われてきています。しかし、全体的なレベルとしては中くらいだと評価しています。

 今年の1月の「ふわりんクルージョン」に登壇させていただいたときにもお話をしましたが、底辺に流れているこの貧困の世代間連鎖をなんとかしないといけないという問題意識がここ2,3年、とくに高まっています。「多問題家族」なんて、ことばでは対応しきれない。複合的多問題家族???変なコトバですが、ともすれば、一家全員がなんらかの障害や病気があるとかはあたりまえ。ジェノグラムに書ききれない登場人物のケース(わかりますか?ステップステップステップファミリーとか)、などがふつーに登場してきます。明日家がないとか、も結構頻繁に出会うケースだったりします。もちろん、そういう対処をしていかないといけませんが、モグラたたきでは、地域課題の解決にはつながらないぞ。と。

 今年度、いろいろな形でのアクションを起こしていこうと準備をしてきました。いまからいくつかのプロジェクトを順次立ち上げていくことにしました。まず、その第一弾でかつ中核的なプロジェクト「NEFNEプロジェクト」です。このプロジェクトは、このような問題意識を共有した三家クリニックとの共同プロジェクトで、寝屋川市の駅前にその拠点施設を立ち上げようというもので、その4階を寝屋川市民たすけあいの会も貸していただこうという形です。その4階を子ども若者支援の拠点にしていくことを想定しています。その拠点全体としては、1階のショップ&ギャラリー、2,3階のカウンセリングルーム、そして3,4階のこども支援という構想です。10月27日から三家クリニックの関さんが改装費のクラウドファンディングをはじめられました。このあと、第2弾、第3弾のご報告になっていきますが、まず、第1弾。ぜひ、ご覧いただき、拡散をよろしくお願いいたします。↓
 https://readyfor.jp/projects/10096




  
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2016年09月29日

専門家時代の幻想から「専門職まがい」の空想の時代へ

 近代化され、専門化されたサービス・システムに本質的に内在する、「愛」と「ケア」という仮面をかぶった特権的な専門家・専門サービス担当者(教師、医者、カウンセラー、弁護士・・・等々)による、人びとを無力化し、人びとの能力を奪う、人間破壊的「援助」について。
(イリイチ)

いまさら、イリイチでもなかろう。
ポストモダンとかなんとか、よくわからない「哲学的あそび」のような議論は、一部の「もてるもの」の遊びでしかない、と。

30年前にアメリカ的文明社会の批判は、10数年前に日本で「ゲンジツ」化し、あたりまえのように私たちの生活に根付いた。

21世紀を目の前にして、いま「失われた20年として」語られる日本のバブル崩壊後の社会は、深化したものとしての高度工業化社会を一気に推し進めたのだろう。と、同時にこれから数十年後に起こる「日本」という国(そのころに「現代国家」という形態が残っているという前提で)の人口再生産の適正的規模=すなわち、人口ピラミッドがほぼ円柱型になるような=時代を想定して、いまからいわゆる団塊の世代に対する「ありがとう」ということばと、「ある一部分」の経済的賦与が行われて、そして葬られていく時代を迎える。

その「世代的一掃の時代」に、「医療的社会」「医源的社会」は中心的アイコンとして存するが、その実、狭い意味の医療は、「医療技術の進歩」という幻想的人間社会の進化を表すものにすぎず、それは宇宙を研究する科学と同義にしかすぎなくなる。これからの「医現的社会」は、中心的アイコンを「健康」にシフトさせてきているのだ。

 今現在、日本は高度に専門家された社会になった。特にそれは、社会保障費という「見せかけの経済」に巣くうように仕組まれた専門家を大量生産した。90年代、工業化社会をベースにした経済成長は鈍化をみせ、新たな産業として、「情報化社会」とともに「家庭外部化社会」を私たちは選択した。シャドウワーク、アンペイドワークといわれる貨幣の媒介をおこなっていなかった労働を貨幣化するために、私たちは専門家を作り出すことによって貨幣化し、「愛」と「ケア」の仮面をかぶる特権階級的専門家を数多く生み出すことに成功してきた。
 しかしいまとなってみな気づいているように、それは単に「団塊の世代」を葬送するために一時的に作られた高度専門家社会でしかない。その財源は枯渇し、姑息的に延命措置的な政策を繰り返すのみである。
そして、税金と二次的税金(社会保険)によって構築されてきた医現的社会は、そういった社会の【シト】として「愛」と「ケア」を仮面的に提供する専門家に、ズブズブにされたのちに、健康というアイコンをみな自己責任で購入しに走るのだ。

ああ、なんということだ。

「健康はすばらしい」と、ほぼだれも否定できないアイコンを、今後は制度的ビジネスではなく、市場的ビジネスから、「愛」と「ケア」の仮面をかぶった専門家といわれる人たちから購入していくのだ。いや、もうしているのだ。そして、そこに空想的社会が広がっていく。【現代国家】の幻想とともに。

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2016年09月27日

医療福祉の専門職は今後どうなっていくのだろうか

今年は、平成30年度の介護保険等を改正を踏まえて、その後の大きな議論をして、いろいろと指針が出されている。

介護保険、医療保険、障害者福祉などの制度の変更、場合によっては統合とともに、人材についての議論も、大きな転換点を迎えている。

経済諮問会議で厚生労働大臣が提案した資料の中で
http://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/minutes/2016/0511/shiryo_06.pdf
医療・福祉人材の最大活用のための養成課程の見直し P4
は、専門職の屋台骨をゆるがす大きな指南である。

○ 医療・福祉の複数資格に共通の基礎課程を創設し、資格ごとの専門
課程との2階建ての養成課程へ再編することを検討。
○ 資格所持による履修期間の短縮、単位認定の拡大を検討

介護保険制度施行以後、医療福祉の人材、専門職が「コンビニ化」してきているという批判がある。
専門職養成学校は、人材的ニーズを最優先し、たくさんの人材をだすために、教育の厚みよりも人材の輩出に腐心する。教育課程は、即戦力になるように変更され、卒業して何年も臨床知を積み重ねるのではなく、コンビニ化した普遍化したまがいものの「エビデンス」治療にのみ重点化してきた。また、制度は、専門的な治療ではなく、専門家による治療、専門的治療器具による治療に点数をつけてきている。

その流れの中で、いよいよ専門職の屋台骨を揺るがす改正をおこなっていこうというのだろう。
専門職集団は、結局、本来的に自分たちの専門職アイディンティを保持することができず、即時的な既得権確保をむかうのだろうか。

ユーザーからしてみれば、そんな専門職はいらない、のであるが。




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2016年09月25日

「従属的」で「抑圧的」な賦与される「権利」

「サバルタンは語ることができるか」
もともと、ばおばぶの五十嵐さんに教えていただいた本である。

ここのところの「また」というネット上での大騒ぎに辟易している。

「大衆」の威を借りて、「国家の経済的危機」というレトリックを使い、「従属的」なものたちを「抑圧」化する言説があとをたたず。言説が言説でなくなる事態までが起こる。

だんだん、「想像力がない」というコトバでは語り尽くせなくなってきた現状に憂う。

これは、最近、「社会活動家」といわれる方にも感じる違和感に通じる。○○の手法を使い「社会課題」を解決する。「社会課題」は、「個人」の中にはない。なのに、語られる言説は、どうも「社会課題」を抱える個人を「変える」という方向にいっていないか?ターゲッティングがおかしくないだろうか?

社会全体が表面上穏健な状態を求めているから、「権利」はいつも賦与されるものでしかない。そんな社会では、結局は「従属的で」「抑圧的な」ものは、語るべきことばを持たない。だからといって、センセンショーナルなジャーナリズムをまとったインパクト活動も個人的には好まないのだが。。。

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2016年08月08日

最低時給1500円で介護の世界はなりたつのか

「25歳の単身者が生活するには時給1526円が必要」――全労連のデータが話題、2016年度の最低賃金822円との差は倍近く
2016.8.6
キャリコネ編集部
https://news.careerconnection.jp/?p=26494

 一般産業界でも時給1500円を基準にして、正規・非正規の壁をなくしてしまえば、会社が崩壊するか、失業者があふれると言われている。
 あまり具体的な論考やシュミレーションをみたことは実はなくて、おそらくはそうなるだろうという話として理解をしている。それくらい現実感がないという話なのか。

 ファーストリテイリングが世界同賃金を打ち出したときにそれも非現実的であるといわれた。グローバル経済の中で、先進国ではない労働賃金の安い国に生産を押しつけ、商品の単価をさげるという「ビジネスモデル」が前提であるわけで、そうすると当然これは非現実的であるといわれたわけだ。

 実際に、時給を1500円にしたら、どんな世界が起こるのか。

 介護/福祉/保育の世界は実は制度ビジネスが前提になっているので、それぞれの事業の単価は、国が一定のシュミレーションで決定をしている。その最たるものがヘルパー事業の単価である。
 ヘルパーは一定の時間1対1の「サービス」だから、その単価のうちのかなりのパーセンテージを人件費がしめる。かりに時給を1500円にしてみて、ヘルパー事業がなりたつか。
答えは否である。
あげてみたとすれば、どうなるか。
おそらくは、1対1のサービスであるヘルパー事業はなりたたなくなるのではないか。
それが業界的な一般的な感覚だろうね。

ヘルパーの人件費率がだいたい65%。時給1500円だすとすると逆算すると2308円。家事援助、生活援助、重度訪問、重度包括は無理になっちゃう。身体介護と行動援護しかクリアできない。となると、ヘルパーの事業所はなりたたないだろうね。

ご本人の人権を守る支援と福祉労働者の人権を守ることが相反することは、古くて新しいテーマだったけど、ますます悩ましい話になっているね
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2016年08月06日

深化しているのは何か

 介護保険の次回の見直し、平成30年度〜にむけて、平成12(2000)年からスタートしたこの制度そのものの根幹が問われかねない議論が進んでいるといわれている。が、今日、つぶやきたいことはそれではない。

 介護保険が導入されて15年。この2000年から2015年の15年間。介護保険が「あたりまえ」になる歴史の中で、介護やその周辺(医療や福祉など)が、そのことを前提にした社会(社会システムではない)になってきた。

 ここでいう「介護保険を前提にした社会」と私が指すのは、どちらかといえば、社会心理的な「社会」という意味で使っている。「制度をつくるもの(人)」「介護保険制度を活用するもの(会社・利用者・家族)」だけではなく私たちの暮らしの中で、「介護保険ありき」があたりまえになってきているという「こと」である。

 それは、介護保険があるから安心とか、高齢社会を支えるために介護保険が必要という意味ではない。

 私たちのように介護保険以前から、「福祉」=正確に言うとこのことばにも違和感があるのだが=にかかわってきたものにとってみれば、私たちのまわりの風景は激変した。

 介護保険が導入されて以降、その文化は障害者福祉にも児童福祉の分野にも広がってきた。
その方や家族が生活する上で必要なものを「ニーズ」とよび、そのニーズと「サービス」が結びつけられる。「サービス」はメニュー化、普遍化され、「ニーズ」をあてはめていく人が登場する。
 
 この「文化」があたりまえになった。

 そしてあたりまえになることによって、そのことに疑問をもつ人も少なくなった。
 
 ご本人の情報は、「サービス」を提供するために必要な情報に矮小化され、共に生きるための情報ではなくなった。また、逆に支援専門性を発揮できるような情報共有は好まざるものとされた。個人情報の同意書だけが一人歩きし、「サービス」提供の旗印の下に個人情報が行き交う。事業者はよりよい「サービス」を提供するという金字塔を掲げ、[人」を物化してやりとりする。

そして、自由は与えられた自由になり、与えられない自由を求めるものは、その管理から脱出することになり、「ナンミン」ということばを賦与される。

そんな「文化」が深化したのだこの15年は。

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2016年07月09日

マクロとミクロのあいだに

日本において「地域」は。マクロとミクロをつなぐメゾとは。

communityもlocalも「地域」。「地方」はもともと「国」に対してのことばではなかった「ぢかた」。

近世にて、移動を制限された民が、一定のルールの中で、労働生産性や生産性を高めるために集団(group)にて構成されたlocalな「クニ」。それは税の収集の仕組み。

それが、近代日本の「地域」の素。家族は素ではなく、「地方(じかた)」=生活集団としてのcommunity=「家族」との一定の連続性。familyではない、まさに漢字の意味そのままの「家・族」。

近代日本は、税の収集の仕組みをlocalな政府から中央国家に再編し、精神的に「家族」を国家レベルのイデオロギーとして結びつけた。ありもしない「大家族」をでっち上げたわけ。

こういう日本の近代史、そして、戦後の現代史の中で。

再度、マクロとミクロのあいだは?という問いかけを。実践者として意識する必要があると思っている。

ミクロ(一人や数人のケース)から、マクロにアクションを起こすことはできる。
ミクロからメゾにもアクションを起こすことはできるはずだが難しい
そして、メゾからマクロへのアクションはもっと難しい

だから、とくに社会課題については、ミクロからマクロにジャンプする。
マクロからメゾレベルの政策を変える方が容易だから(もちろん、マクロ アクションはたいへんですよ)

でも、メゾは?
ミクロからメゾ、メゾからマクロにつながるアクション

ミクロからメゾ マクロからメゾ
メゾをどうして変えていくのか。その課題にきちんと向き合おう
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2016年05月31日

地域包括ケアを推進と、高齢者福祉の効率化

他の人の書かれた文章をして、それを詳細に紹介するのは少し気が引けるのだけれど、とてもおもしろい話などでご紹介をしたい。

高山義浩さんのfacebookに5月29日に掲載された「対話」だ。
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=997883016931872&set=a.167956633257852.47153.100001305489071&type=3&theater

「地域包括ケアを推進することって、高齢者福祉の効率化になるんでしょうか?」

からはじまるこの対話。
学生さんとの飲み会での対話を紹介する形で話がすすむ。

国が進める地域包括ケアの裏側には、どんな思想が隠れているのか。

高齢者の生き方、生かされ方に話はすすむ。

そして、日本の在宅医療というのが、実は、施設介護も含めた「在宅」であること(これはシンポリックマジックなんだけど)を指摘し、

そのことをして、高齢者施設を「効率的」であるのかと問う学生さんに
カルカッタのマザーテレサが運営する『死を待つ人々の家』とタイのプラパットナンプーという寺院のありようをして問う。

高山さんは、「支配はケアではない」と説く(個人的には、ケアはすべて支配的要素を含むと思っているが、ここではそれはことばあそびになるので、彼のいうように)

そして
「病院や施設のシステムに高齢者をはめ込もうとするなら、そのようなケアは支援ではなく支配だ」と私はふたたびオッサンらしく断定的に言いました。「そんななかで効率性をめざすのなら、きっと悪循環に陥るだろう。支配には抵抗する。これが人間だからね」


と。いわれる。

あまりにも鮮やかだ。読める方は、ぜひ、高山さんの原文を読んでいただきたい。
また、朝日新聞にアピタルという連載もあるようだ。
このコラムなんかとてもおもしろい
http://www.asahi.com/articles/SDI201512286224.html

****
マザーテレサの『死を待つ人々の家』とタイのプラパットナンプーの話などは、大学院の時代に、柴田善守先生の「社会福祉の史的発展」の講義を思い出すような話だった。キリスト教と仏教の宗教思想を背景にした「人間」のとらえ方、そこで行われる人と人との営み。「ボランタス」と「共生(ともいき)」の思想。

他方で、「近代医療の支配」と地域包括ケアシステムがめざすのは、医療の支配なのか、それとも違うのか、ということを考えないといけないような気がする。
posted by 凸凸 at 07:31| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月25日

ほんとうに欲しかったのは?

 豊田勇造さんというシンガーソングライターの歌に「そんなんやない」という歌がある。
  
  屋根瓦続くこの街が
  大切にしてきたものを
  今に生かす工夫をして
  出来るだけ余分な事をしない
  俺が好きなのは そんなんや!

  もう止めてくれ妙なモノづくり
  俺たちの街をいじく回すのは
  もう止めてくれ妙なモノづくり
  俺たちの国をいじくりまわすのは
 
  本当に欲しいのは そんなんやない!

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
私は

「当事者」でないものが、「当事者運動」が。。。ということには抵抗がある。

 しかし、いまの状況からすれば、地域生活支援は突出した一人の生活実態では進まなくなってきている気がしている。
 運動がなく、ダラッとした制度しかない自治体でできることは、ゆっくりとした全体のシステマティックな底上げ、しかなくなる。

 それももちろん、必要なことだ。
しかし、あるラインまでくると、現状のシステムメンテナンスにいっぱいいっぱいになり、もう一歩先にはいかない。

 制度の中で、制度に左右される生活 

 それでいいのかもしれないが、それがほんとうに望まれている生活か?と。

 それが自己決定であると言われれば、私たちは選択肢を増やすことをせざるを得ない。自己選択できる選択肢を増やすことで、定められた自己決定の枠を広げて自己選択をしていただけるように。しかし、みんなで、システマティックにやることは、選択肢もまた、制度枠内の選択肢を示すことにしかすぎない。
 運動の方向性が、制度の枠の中で行われ続けていけば、その運用は、最終的に、ご本人とご家族の責任に帰する。それが求めてきたものか?それがほんとうに欲しかったものなのだろうか。

 この大きな波にのまれて、みな、生きることに強いられている。

 もう一度言う。ほんとうに欲しかったのは?

 
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2016年05月03日

大規模災害をして思っていること

 このたび、熊本県を中心とした九州地域で発生した地震により亡くなられた方々へのお悔みを申し上げますとともに、被災されたみなさま、そのご家族のみなさまに心よりお見舞い申し上げます。 また、皆様の安全と一日も早い被災地の復興を心よりお祈り申し上げます。

 熊本・大分地震が起こって、半月がたった。

 今回は私自身は動けず、大阪からいち早く、また機をみて活動を行っているみなさんの活動を気持ちだけ応援している状況である。東日本のときもそうだったが、日常が落ち着いて余裕がないとなかなか直接の活動はできず、ネットをみながら、つながっているみなさんに情報を整理して流しているのが関の山である。悲しいかな。
 しかし、そんな自分でもできることは、もし、自分の地域で起きたら、を考えることである。考えるだけではだめなんだけれど。

 熊本大分地震 5月2日の時点でまだ2万人の方が避難所に身を寄せられているそうだ。

熊本県などでの一連の地震で熊本県内の避難所に身を寄せる住民の数が、最多の18万人余を数えた本震翌日に比べて1割強になったことが、県の調べでわかった。それでもなお2万557人(2日現在)が避難所にいる。熊本市は6日に「復興部」を立ち上げ、生活再建への取り組みを強化する。
 県によると、本震翌日の4月17日朝には、855カ所に18万3882人が避難。だが5月2日現在では、396カ所で2万人余りになった。(朝日新聞より抜粋)


 本震翌日の4月17日朝には、18万人以上の方が避難されたとある。

 今回の地震被害でつくづく日本の現行の災害対策では大規模の災害には対応できないことが露呈しているように感じている。それは、滑落した山や土砂災害の対策や耐震の話ではなく(そんな話が多く散見されるが)、リアルな被災されたみなさんから出てきている「避難所」中心の災害施策のありようについて、である。

 今回の地震でずっと目にしているのが、車中泊である。これまでに類のないといわれる継続する地震の恐怖に屋内ではなく車に避難をしておられる方。
 地震直後からyahoo個人ニュースでずっと発信している方の昨日の配信も車中泊。そこに書かれている被災者の方の思いにいまの日本の災害対策の限界が如実に表れているように感じる
(私はちなみにこの配信者の方の行動や内容に全面的に賛同しているわけではない。念のため)

【避難所からのメッセージ9】漂流する車中避難者のいま
http://bylines.news.yahoo.co.jp/horijun/20160502-00057305/ 

 行政が指定している避難所のそもそもの耐震性がこうして指摘されるが、行政の関係者はそもそも、市民のどのくらいの方を避難所で受け入れられる想定で災害時の計画を作っているのか、明らかにすべきである。はっきりと、全員は入れませんと言っておくべきだ。

(私が無知ですべての市民の受け入れを前提に災害計画をつくっておられる自治体があれば、教えていただきたい)

となると、避難所はあくまで避難支援拠点となるステーションであり、という前提で災害支援計画をつくっておくべきだというのが1点。

 もう一点は、仮設住宅を前提にした復興計画には今回のような規模の災害には規模的にもスピード的にも限界があるということ。
 アルピニストの野口健さんがテント村プロジェクトとテントを送ってという支援を展開
 http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/241050
 これは一時的な車中泊対策という評価ですが

 タレントの清水国明さんが仮設住宅でなくトレーラーハウスを
 http://www.j-cast.com/2016/04/19264430.html

アメリカとかでは、仮設住宅ではなくトレーラーハウスとのこと。

日本の国土にトレーラーハウスがあうのかという話は当然議論になるでしょうが、
今回のような災害が起こることをかんがえれば、日本の一大産業が車産業であるのであれば
その技術の応用から、日本の国土にあった「カーハウス」を開発し、自動車産業の社会貢献、自治体との連携によって、全国に1万台くらい常備(各自治体に10台くらい)しておいて、災害が起こったときに、広域のオペレーションをプランニングしておいて、1週間以内に必要台数を被災地域に、送ることができるようなそんなイメージをもてないだろうか。

 阪神淡路 中越 東日本 ときて、医療救急チームの緊急支援などはずいぶん進んだし、民間の物流復旧オペレーションもずいぶん進んだ感じがあるけれど、なにか根本的なものに突き当たっている感じがする。
 
 今回もまだまだ地震からの復旧がはじまったばかりですが、東日本をはじめ、全国各地のいろいろな災害で被災された方、地域の復興はまだ終わっていないところも数々あります。

 災害列島という呼び名は好きではありませんが、超高齢社会の日本は確実に災害に弱い社会になるわけですから、根本的な発想の転換をさまざまな側面で考えなければならないとつくづく思います。

この文章、もう少し後に書こうと思っていましたが、九州に比較的近い大阪でもすでにこの災害のインパクトは薄れつつあり、首都圏はすでに薄れてきているいう話もあり、また今月末に伊勢でサミットがあり、どんどんそっちにマスコミの意識は移っていくだろうと思いこの時期に書かせていただくことにしました。
まだまだ復興フェイズに変わっていないのに、心苦しいのですが。。。


 
  
 
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2016年04月23日

放送法と災害

私自身不勉強だったが、FMわいわいのラジオ免許の件から、「放送法」というやつを目にするようになって。
あらためて、今回の熊本・大分地震でマスメディアのありようについてのさまざまな話があり。
で、なんで、災害時にみんなTVのチャンネルが災害放送になるかと、
放送法にこんな条文があるんですわ。
だから、いやでもやらないといけないわけで。
報道の自由性と報道の公共性と報道の政治性などなど、かなりびみょーな話があるようです。
だからといって、マスコミがみんなでヘリコプター飛ばすのは、「被害を軽減するために」役に立ってないし、報道の方法にはいろいろと問題があるわけで。
メディアチャンネルが多様化する中で、どうやねん、という話。
高齢者が多いいまの日本で、そのメインユーザーの文化にあわせといたらいいというのは、通用しないはずなんだけど。
http://dsk.or.jp/dskwiki/index.php?%E6%94%B
放送法第108条 †
(災害の場合の放送)
第百八条  基幹放送事業者は、国内基幹放送等を行うに当たり、暴風、豪雨、洪水、地震、大規模な火事その他による災害が発生し、又は発生するおそれがある場合には、その発生を予防し、又はその被害を軽減するために役立つ放送をするようにしなければならない。
Link: 放送(505d) 災害の場合の放送(506d) 国内基幹放送等(506d) 基幹放送事業者(506d) 条文索引(放送法)(725d)
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2016年04月19日

熊本地震 情報発信 2

今回は大きな余震が続いていてなかなか自宅にいるということもできにくい地域も多いと思いますが

※自宅に友人や知人の避難を受け入れていたらあなたの家は「避難所」です。 市役所へ「避難所登録」してください
http://togetter.com/li/964120

※災害時に役立つ!覚えておきたいアウトドアの知恵18
http://allabout.co.jp/gm/gc/450955/
posted by 凸凸 at 07:18| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

熊本地震 情報発信

【4月19日0:00時点の情報】

18日の20時42分の大きな余震?で少し状況がまたかわっている部分もあるかもしれませんが。熊本、大分の各自治体のサイトをずらっとみてみました。(twitterからのまとめ転載です。)

他県の方は市町村地図 たとえばhttp://www.mapion.co.jp/map/admi43.html
を見ながら、確認をしてください。

報道などでかなりの被害が言われている南阿蘇村、西原村、益城町、嘉島町は情報発信の面からみてもやはり厳しそうです。

あと、熊本市も省いています。

熊本県から大分、宮崎の県境を調べてみると、やはり大分側だけに被害がでていて、宮崎の県境のまち高千穂町には被害の様子はないようです。もちろん、地震でゆれてはいますが。

役にたつかどうかはわかりませんが、他県からみると、ひとかたまりにみてしまいがちですが、もうかなりな差がでています。

県内優先でボランティアを募集している自治体もあったり、まだまだ、物資不足を訴えておられる自治体もあります。



熊本市の北西部に位置する玉東町http://www.town.gyokuto.kumamoto.jp  被害は少なめですんでいるようです。

熊本市北区と菊池市の間になります合志市。HPでの発信http://www.city.koshi.lg.jp とともに、公式twitterによるこまめな発信があります。https://twitter.com/Koshi_City

大分県との県境のまち菊池市です.被害がでているようで、細やかにホームページによって、情報の発信がされています。http://www.city.kikuchi.lg.jp/q/aview/52/10025.html



熊本から大分・福岡の県境に近く、黒川温泉で有名な南小国町も被災されています。阿蘇山に近い。町の公式のHPなどよりも観光協会のFBの方が情報を発信されています。ここも大分日田からのルートの情報がありますhttps://www.facebook.com/minamiogunikanko

熊本から大分・福岡の県境の街 小国町。阿蘇山に近い。被害がでています。FBの方が発信をされておられます。https://www.facebook.com/ogunimachi/ 。大分の日田から小国町を経ての道路ルートの情報も更新されています

大分で被害がでているのは、阿蘇に近い竹田市https://www.city.taketa.oita.jp と報道にも出ている由布市http://www.city.yufu.oita.jp のようです。ただ、先ほど4/18 20時台の大きな地震で事態はかわってきているようです。

阿蘇地域で大分、宮崎の県境の高森町。本震でかなりの被害がでているようです。http://www.town.takamori.kumamoto.jp  復旧したFBが細やかな情報発信をされていますhttps://www.facebook.com/takamorimachi/?fref=photo

さきほどの20時すぎの大きな地震の情報がすぐに発信されています阿蘇市。被害は大きいようです。http://www.city.aso.kumamoto.jp/kumamoto_eq/  FBは頻繁に更新されており、道路の情報も細かく掲載されていますhttps://www.facebook.com/asocity

熊本県 大津町と熊本市東区の間にある菊陽町。サイトからの情報では、避難所の開設と、水道がダメであり給水をおこなっているのみです。http://www.town.kikuyo.lg.jp

熊本県 大津町 被害の大きい断層の北にあるまち。あまり、報道ではその町名はみかけませんが、町役場の庁舎も使えなくなり、被害は大きいようです。4/18停電は解消したようですhttp://www.town.ozu.kumamoto.jp/index.html

宮崎県との県境の町 山都町 物資が不足しているとの書き込みがあります。(4月18日更新情報)
http://www.town.kumamoto-yamato.lg.jp

熊本市南区の南東に位置する甲佐町http://www.town.kosa.kumamoto.jp  被害はあったようですし、避難所に避難されている方もおられるようですし、橋も通れなくなっているようですが、町内で支援が行われているようです。https://www.facebook.com/KosaTownKumamotoJapan/

熊本市の南部、宇城市と隣接している宇土市。ここも市役所が半壊しているところです。状況としては、まだまだ落ち着いていないようですが、ボランティアの募集もしているようです。 http://www.city.uto.kumamoto.jp  随時の情報はFBにあがっているようですね

被害の甚大だった益城町の南側に位置する御船町。積極的な情報発信を行っておられます。http://portal.kumamoto-net.ne.jp/town_mifune/  FBhttps://www.facebook.com/mifunetown

天草地方へのアクセス口になっていて、熊本市の南部に位置する宇城市http://www.city.uki.kumamoto.jp

市庁舎が崩壊している熊本県のかなり鹿児島に近い地域、八代市。市のサイトをみる限りは、日常化にフェイズが移りはじめている感じ。http://www.city.yatsushiro.lg.jp
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2016年04月09日

成年後見制度にまつわることで、思うこと。

あまりしたくない話ではあるが。成年後見利用促進法が成立しその関連で後見人の権限を拡大する民法の改正案が国会で通った。

重度の障害のある人の支援もしている私たちとしては、後見人(保佐人)も含む方たちとの日常的なやりとりは、もちろん、福祉医療の現場での、よくわからない理解の中で、また、この社説にもあるような原理原則のご本人の意思決定を尊重するという話と、現場のそうはいかないような混沌とした現実の中で、とても悩ましいと思う。

琉球新報 社説 http://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-252943.html

最近、よくあるのが、医療の現場での後見人=家族というような扱われ方である。もちろん、私は医療の現場をしらぬわけではない。

病院にいくと、よく目にするのは、患者・家族と医療者がともに、治療にとりくんでいくというスローガンだ。
そこで思うのは、やはり、医療にアクセスをするのには、患者が医療者と意思疎通ができ、家族がしっかりいるという前提なのだ。しかし、現実はそうはいかない。単身世帯がどんどん増え、そして、認知症のお年寄りも含め、意思疎通の成立しにくい方はどんどん増えている。

インフォームドコンセントということばが市民権を得て久しい。しかし、そのことばが医療者の間に浸透するようになればなるほど、すべての情報は審らかにかつストレートに遠慮なくご本人に伝えられる。それを決定せねばならないのが、いまの医療の現場である。言っておくがここで、医療者を責めているのではない。いまの日本の医療システムがそうなってしまっている。

「ご家族の方はおられますか?」
「いえ」

「あ、でも後見人の方がおられます」
「では、後見人の方にきてもらってください。いつくらいに来られますか?」
その流れで、日常的なこともすべて、後見人に伝えようとされる。
まさに 後見人=家族 だ。

確かに後見人業務の中には、身上監護という役割がある。しかし、すべての後見人、保佐人が家族のような役割をするかといえば、そうではない。それよりも、私たちのような役割のものが日常的に支援をしていて、生活をよくよく知っていることも多い。しかし、その意見はなかなかにとおりが悪いようだ。
今度の制度改正の中で、医療同意権も付与されるときく。しかし、果たして、そんなことが後見人にできるのだろうか。誤解をまねくかもしれないが、日常的に支援者とよくよくコンタクトをとり、支援の方針の共有ができていれば、できうるだろう。しかし、現実はどうだろうか。

 今回の改正にともなって、当事者団体などから、意思決定支援の仕組みがなく、本人の権利を制限するような成年後見制度を利用促進する前に、改正をするべきだという意思表明が多く出され、先に紹介したような社説も毎日新聞、東京新聞とでたようである。
 しかし、ここでも現場の苦悩は、解消されない。
 もちろん、意思決定支援をしたい、しかし、現実には客観的にみると生活できない状況をのぞみつづけ、救急車で病院に運ばれては、自宅にもどることをくりかえしてしまうようなケースも数多くあり、共同生活をまったく受け入れない人たちは数多い。それが認知症の方になれば、後見制度をつかった本人の意思を制限してと考えてしまう現状なのだ。なぜ、そんなことがおこる?

 私はそんなことをしていないとは言わない。実際に、しているかもしれない。なぜか
 正直にいえば、圧倒的に、地域で生活しうる環境がいまや整わないのだ。制度はガサガサ、かりに制度をうまく使えるだろう人でも、人が不足して支えることができない。ベストはチョイスできない。本人の意思をストレートではなく、家族、地域をみて、客観的に本人の意思をコントロールしたいと思ってしまう。それが地域の現状ではないだろうか。
 そんな現状の中で、成年後見制度の権限が拡大すれば、どうなるか、そんなことは日の目をみるより明らかだ。

 しかし、それが医療モデルの地域包括支援システムを成り立たせるために必要とされているのだとしても、現実に押しつぶされている中では、そこに拠るしかないような気さえする。

 ケアマネや相談支援専門員が「人生」を背負わされることもおかしいと思うし、それが後見人であることも違うと思う。まさに日本的といわれてしまうような仕組みをなぜに作っていってしまうのか。

理想を語り、理念を謳い、足下の現実は地獄でも困るが、理念を語り、理念を謳えないような現実こそが問題ではないのだろうか。

posted by 凸凸 at 23:13| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月06日

映像06「ぼちぼちはうす」から10年

あまり自分の団体のことを話たり書いたりしないのですが。
2016年3月12日 自作映像作品上映会「Affect&Effect」という取り組みをやりました(正確に言うと私はほとんど何もしていないので、うちのスタッフやボランティア、メンバーさんたちが)
その映像の一部がyoutubeに公開されています。
いまから10年前、障害者自立支援法ができるときに、たすけあいの会の日中活動の場は解体の危機にさらされました。それをMBS毎日放送のドキュメンタリー「映像06 ぼちぼちはうす」http://www.mbs.jp/eizou/06.html として、取材をうけ、放映されました。

ぼちぼちはうすのチームは「ぼちぼちの木」という作品をエントリー
 https://www.youtube.com/watch?v=HJVe5Zwqimk

メンバーはほとんどかわらないものの、スタッフは映像06当時とはずいぶんかわりましたが、相も変わらぬ楽しい日中です。この作品のナレーションをしてくれた女性は10代のときに脳の病気で失語症になった方です。映像06のときのみなさんの寄付で拡張した「新館」に通ってきてくださっている方です。
今回の映像の中には、実際の支援の様子を紹介した「くらし支援チーム」からの映像が2本ありました。映像06のときの主演のお一人多久寛子さん。映像06のときにお母様の2人のおうちの様子が移りました。枝にこだわりのある行動障害のある重度知的障害の方です。たすけあいの会の活動とともに、生きてこられたといってもいい彼女は、いま、一人暮らし(二人暮らし?)をしています。
https://www.youtube.com/watch?v=MFOlMwBsEZ4

もう1本は重度障害者等包括支援事業を使って行っている体験宿泊の様子。映像06のときのもうひとりの主演の全盲自閉症の加藤さんや自傷行為で片目をつぶしてしまっている長谷川さんたちの宿泊の様子です。
https://www.youtube.com/watch?v=pem3OfrBHAE

たまには、寝屋川市民たすけあいの会の実践の一部をご紹介してもいいかな、と思い、ご紹介させていただきます。

重い障害の人の支援をしていますとか、最重度の知的障害の方のひとりぐらしを支援しています。とかあんまり似合わないフレーズだなと思いつつ、そんな気持ちなく日々のことを素直にこうして発信してくれる、そんなうちの人たちになんとなく感動しながら。かかわってくれる人が増えてくれるといいな、と
posted by 凸凸 at 11:15| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月03日

障害者総合支援法3年次見直しの資料

報道でも触れられていて、かくかく、SNSなどでも拡散されているようですが、一応、ご紹介

障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律及び児童福祉法の一部を改正する法律案(平成28年3月1日提出)

http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/soumu/houritu/190.html

一番下です。

これだけではなかなかわかりにくいですね。

追加
法律案の概要
法案概要.pdf法案概要.pdf

自立生活援助
  地域定着支援となにがちがうの?居宅と地域定着を併せてってことかな。地域定着の単価をあげるのではなく、整理をつけて自立生活援助に誘導かな(うちの場合)

就労定着支援
  中途半端な位置にあるな。就業・がつくるのでもなく、就労移行支援がつくるのでもなく、定着支援はどこがやるねんという議論になりそうだな。地域によって、機関は選べると言うことか。

重度訪問介護の入院先への訪問の拡大か。
 重度包括は一言もないなぁ。これは重度訪問への再委託というやりかたで抜けられるということかなぁ
 そうしてくれないと、重度包括の利用拡大とかいっても結局、重度訪問の方がいいことになっちゃうよなぁ

医ケア児はもう少し突っ込んでくるかと思ったけど、そう持ち玉がないのか。

障害児福祉計画って。。。
この最後の一文は

○ 放課後等デイサービス等の障害児通所支援や障害児入所支援については、都道府県障害児福祉計画の達成に支障を生ずるおそれがあると認めるとき(計画に定めるサービスの必要な量に達している場合等)、都道府県は事業所等の指定をしないことができる。

 放課後デイの抑制ですやん。

 個々人の支給決定量の問題とも絡むし、なかなかに、やってくれるよな。

 障害福祉計画と別立てでたてることはできないけど、委員構成とか、行政の部局構成とか、こども子育て支援計画との絡みとか、行政的にはややこしそうだな

 補装具の貸与も期待していたほどのものにはならないな。日常生活用具給付は地域生活支援事業だけど、こっちも一部貸与いれてほしいよな。ベッドとか。介護保険との絡みもあるから、厳しいだろうな

情報公開までか、第3者評価まで突っ込んでくるかと思ったけど


posted by 凸凸 at 06:51| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月19日

奈良 暮らしネットフォーラム

明日、2月20日 奈良で行われるイベントに登壇します。
山田優さんが体調不良でこられなくなり、構成がかわります。
なので、私の出番も増え、こんなメモをお配りさせていただきました。

『今問うべきもの 私たちの“仕事”とは』
           シンポジウムメモ
                     冨田昌吾(寝屋川市民たすけあいの会)

今日のために、いろいろな方がいろいろな思いをもって、このイベントが実現されましたことを感謝いたします。

何回かの打ち合わせの中で、廣瀬明彦さんを偲ぶような話ではなく、いま、これからを話をしようということが決まっています。
私と廣瀬さんの出会いや一緒にやらせていただいたことみたいなことは、実はあんまり思い出せなくもなっていて、一体いつに出会わせていただいたのか、なぜ、だったのか、思い出せない。ただ、最初のころに、相楽作業所で、優さんがきていて、北海道の伊達の大垣さんがきていて、青葉園の寺谷さんと滋賀の中島さんがおられたイベントがあって、その夜の懇親会で、廣瀬さんに「同年代でしょ?」っていわれたことが強烈に印象深かった。実際は一回り以上、離れているのに。

打ち合わせの中で、いろいろなお話を聞かれて、(シンポジウムの中でも聞かれると思いますが)一番、困ったのは「原動力」ということばでした。私の活動の「原動力」とは何か?
実はまともに答えられないです私。

公(おおやけ)的なことばを使えば、私たちの「仕事」とは、って話をすることもできますが、たぶん、それは今日、求められている話ではないでしょう。
「仕事」ってことを考えるときに、私が昔から引用する話があって。
それは内山節さんという哲学者がある本にかかれていた「仕事」と「稼ぎ」の話。
彼はある村に住むようになって、その村人たちが「仕事」と「稼ぎ」ということばを使い分けていることを知ったそうです。
ここでいう「仕事」とはそこに暮らすための「仕事」。お金になるシゴト、ではなく、暮らしをなりたたせていくための営みのような意味です。本来、暮らすことの中にあった「仕事」が、いまは、(難しい言い方でいえば、近代は)お金を稼ぐと言うことになります。

少し、視点をかえます。
日本の社会福祉制度のこの30年の流れを考えると、そこにいろいろとみえてくるものがありますよね。
みなさんはこの問いかけに何をおこたえになられでしょうか。
私は、ここでは、「市場」と「国」と「ニーズ」と「権利」という4つのキーワードをあげたいとおもいます。
ことばあそび的にきこえるかもしれませんが。
一般的な福祉制度の変遷の中で、よくいわれるのが、介護保険を期に導入された「福祉サービスの市場化」です。
正確に言うと、「福祉サービス」といういまではあたりまえに使われることばは、私が社会福祉を勉強しはじめた90年ごろは、全く一般的なことばではありませんでした。それどころか、福祉にサービス化はなじまないという論説が語られていました。
ここでいう「サービス」とは、市場サービスのことですが。
その頃から、「サービス」ということばとともに、「ニーズ」ということばも登場します。
 ニーズは、市場により満たされるものか?
 ニーズは、国(家)により満たされるものか?
この二項論はなんとなく、聞かれたことがあるかもしれません。
では、「ニーズ」は「権利」として認められるべきものとそうでないものがあるのか否か
という問いはあまりききなれないフレーズかもしれません。
 ニーズは国(家)や市場により、すべて満たされるものなのか?(ここではべき論ではありません)どう思われますか?
 私も勉強不足でこの門答にどれだけの方がきちんと挑んでおられるのか存じ上げないのですが。

 身近なところで考えてみましょう。
 いまの福祉サービスの提供で、すべての人のニーズが満たされるでしょうか?満たすことができると思われますか?
 そんなことできるわけがない。→人もお金も足りないから
いや、ちょっと、待ってください。ここでの話はそういう話ではないです。もし、仮にご本人が望むサービスを制度的に保障し、福祉サービスが提供できた場合です。
 どうでしょうか。

 私は大阪の北の方の街の出身です。中学時代に公立の中学校のクラスに重心の友人が通ってきました。同じクラスになったときに、そのクラスには黒板の横にベッドがおかれ、そこに「彼」は通ってきていました。通学は友人たちが手伝って。その「彼」とのかかわりから、いわゆる障害のある人たちとの交流が増えました。「彼」は卒業をすることなく旅立ってしまいましたが。集会にもいきましたが、正直、あまりいい思い出はありません。きれいごとではなくシビアさを突きつけられます。思春期に、同年代の二重三重の差別をうけていた方から、「おまえはいつでも逃げられる。俺は、自分の生まれから逃げられない」とことばを投げつけられました。ものすごく印象に残っていることばです。「私が私として何ができるか」それは、漠然とした不特定な人としてではなく、「特定な(の)私」を要求されました。
 一方で、「特定の私」には限界が当然あります。一人でできることには限りがある。
 そこで悩むわけです。悩みませんか?

 「顔の見える関係」ということばがあります。福祉の世界の中では、なぜかこのことば金言ですよね。「サービス」ということばを嫌っている人たちも「サービス」ということばに乗っかって活動・事業をしている人たちも、両極端に見える群が両方とも好んで使っているように思います。不思議ではないですか?
 「サービス」ということを考えたときに、ある「goods(日本語では商品と訳されますが)」を介して取り結ばれる関係に付加される価値として、考えられる「もの」があります。
 10年くらい前かに、当時のマクドナルドの社長さんとセブンイレブンジャパンの社長さんの対談を読んだことがあります。ファーストフード対コンビニの対決対談のような記事だったかと思います。そこで、マクドナルドの「無料のスマイルによって私たちは勝ち組になれる」というような主旨のことが語られていました。日本中どこにいっても、同じマニュアルで同じ服装とオペレーションで同じ笑顔が勝ち組になる、と。
 私くらい以上の年代の方で介護保険前夜を経験している人は、これとおなじような話を当時きかれたことがある方もいらっしゃるのではないかとおもいます。2000年当時のコムスン(当時)のTVコマーシャルです。そういったベースとしてのサービス。サービスの均質性は、消費されやすい一つの「売り」(キラーコンテンツ)です。安心を売るということになるかもしれません。

 しかし、それだけでは現在の競争社会では生き残ることができない。サービスとしての付加価値を高めないと、市場では生き残ることができない。それが特に個別性が高く密室性、近接性が高いヒューマンサービスでは、個別的なニーズに対応すること=付加価値になります。なので、コマーシャルとしての「顔の見える関係」になります。

 一方で、国(家)や市場は、私たちの社会生活として考えると不完全なものです。権利として、義務化されたものとして国(家)に求めても、市場から購入をすることをしても私たちの社会生活のニーズを完全に満たすことはできないといわれています。その一つが「顔の見える関係」です。つまり、愛情であったり、対等な人間関係などは、国からも市場からも得ることはできませんが、私たちが社会生活を営んでいく上で持っている固有のニーズです。

 はじめに引用させていただいた「仕事」と「稼ぎ」の違い
では、このシンポジウムのテーマである「仕事」とは何か。
 一人一人の自分の中に、内面的に二面性を内包させるのか、否か。
答えはないと思いますが、ひとりひとりの答えを求めるプロセスの考えるヒントはそんなところにあるのかもしれません。
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2016年02月06日

福祉と福祉サービスの「対象化」ー「崩していい前提」と「崩してはいけない前提」と−2

 前回のエントリーの最後が、みんな混乱しているのではないか、と書いた。

 福祉の「対象化」。

 古くから言われている話だが、最近、あんまり話題に上らないのだろうか。学会関係、研究関係からは私自身がとーんと離れてしまっているので、その世界では議論があるかもしれないが。

 福祉制度は、もともと資本主義経済社会の中で生まれてきた補足的な制度であるということを大前提として、その対象は、制度的に補足される「対象」と潜在化している「対象」とがある。たとえば、公的扶助(日本で言う生活保護)は「捕捉率」ということばを使う。

 実は、潜在化している「対象」もその制度でサポートするべき対象と、必ずしもその制度でサポートする必要はないが、他の制度との兼ね合いでサポートするべき対象がある。というのが、歴史的に社会福祉論の中で議論されてきた「対象論」だ。目指される議論として、できるかぎり、対象を対象化することによって、生活のサポートが広く行われるようにという方向性になっていくのだが、社会の流動性と構造の変容の中で、これだけではなかなかピンとこない議論になっているのかもしれない。

 加えて、この議論は、社会保障と社会福祉が混同、混乱しがちな議論でもあり、(本来は社会福祉制度は社会保障制度の一部なんだけど、日本ではどうも社会保障というのが通りが悪い)、かつ、介護保険以降日本の福祉が社会保険制度【的】な仕組みを採用していたりするから、さらに、ぐちゃぐちゃになってきている。

 対人援助サービス(イギリスでいうSocial Servicesを意識してここではつかう)が、一般的には福祉というイメージで語られる日本の中で、社会保険【的】な仕組みの中で提供されるものになってくる中で、だんだんと「サポートする対象」というイメージ自体がアンダーグラウンドな議論になっているように思う。

 一方で、福祉サービスとして、サービスが提供されるということは、利用者はそこに現実的に自己負担を払う払わないということにかかわらず(実は実際に払うと払わないでは、かなり消費者意識性が違うのだが)、「消費者」として、関係性をもつことになる。
 【サービス−消費(者)】という関係は、実は対象化の議論は、背景におしやられてしまい前面にはでてこない。この構造の中では、消費することにより、間接的に「対象」になる。

 さらに共通するのは、福祉や福祉サービスは、あくまで申請による。制度政策として、想定される対象は設定されるにしても、対象化されるわけではない。

 社会保障制度・社会福祉制度の中で、対象化される仕組みはこうしてできあがっている。そして、専門家とよばれる人たちがその制度の装置として、「タテ-ヨコ」つまり、専門的に設定される対象と制度設計的に想定されている対象を捕捉する役割を期待されて、整備される。

 もちろん、その専門家たちには、ソーシャルワーカーのようにアクション機能をもっているものもいるから、その対象を制度的な枠を超えて、問題や課題を抱えている人たちをして、訴えていくことはできうる。

が。しかし、それは、福祉という狭い枠に押し込めるものではないはずだ。

みな、忘れているのか。
福祉は制度による管理なのだ。
救済は慈善だ。

それを知っていながら、なんでも福祉(制度)に投げてはいけない。それが「崩してはいけない前提」だと私は思う。


 
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2016年02月04日

「崩していい前提」と「崩してはいけない前提」と

土曜日に東京に行かせていただいての話は、前回のエントリーに書かせていただいた。

FB上では、いろいろなやりとりがあって、SNSのある種の醍醐味というか、があって、それがリアルにも少しつながって、という感じだったりする。私のFBは基本は仕事用になっているし、でも、下の世代のみなさんのような強力なツールとして意識的に活用しているものでもないので。

BLOGなぁ、と思いつつ、外に出ていろいろな方にお会いするとBLOG読んでます。といっていただけることもあって、細々ととは思っています。

土曜日のふわりんクルージョン2016の内容は、全体の概要としては、ここでいうことではないし、まぁ、また、介護保険と障害福祉の統合の話も政治家の方の口からあーしてリアルにきくと、一方で社会保障制度そのものの話とリンクして、きかないといけないことが深化してきたなぁと思う。ちょうど、12,13年前に講演によくいかせていただいたときに、支援費制度をして障害福祉施策も社会保障の一制度として、組み入れるんだという視点をもってくださいとお話していたことが、思い出される。

もうひとつ、タイトルにあげたまたしてもいつもの禅問答のような、ことばあそびのような話。「崩していい前提」と「崩してはいけない前提」

今回、私が話をさせていただいた話題の「未受診妊婦さん」の話。
福祉の人たちは、福祉が「対象を対象化」しないと成り立たないことをどこかで忘れたいのか忘れようとしているのか、と、思ってしまう。それは制度の対象という狭い枠組みではなく、それは「崩してはいけない前提」なのだと思っている。福祉の限界は対象化であるというのは、崩していい前提ではない。
一方で暮らしや生活は、枠組みは制度で決められるものではないので、いろいろな前提は崩していい前提なはずなのだ。
そういう視点でたてば、未受診の妊婦さんの課題は、福祉や保健の制度としてできることと、その制度の枠組みでは、できないことがあると思うのだ。

未受診妊婦さんの話とは違うが
どこかのNPOのリーダーの方がいうような「福祉は風俗に負けている」という挑発的なことばを、福祉の関係者は、真っ正面にうけとめつつも、きちんと反論できないといけないように思う。だんだんと、混乱しているように感じる
posted by 凸凸 at 08:23| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする