2015年11月28日

介護保険におけるNPOの時代は終わりに近づいている?!

このところのみなさんとのやりとりで。

介護保険がはじまって15年。
それこそ、その前夜からNPOはある種、その主役の一端を担ってきたと思う。

事業型NPOなることばができ、介護保険からみてもNPOの存在は大きかった。

しかし、15年たって、というより数年前よりおそらく、その構図は、変わってきている。

介護保険制度そのものからみると、NPO法人立の事業所は数が増え度も、シェアはわずか。ということは、零細事業所でしかない。
また、事業運営規程や運営前提も株式会社を前提にしたものにかわってきている。大規模を前提にした社会福祉法人か、株式会社かという選択肢の中で、NPO法人は介護保険事業にその中軸を今後もちうるのだろうか、という疑問がわいてくる。

NPOに期待されるのは、保険外のサービスであるというのは、よくいわれるが、それも早晩、ニッチな市場として株式会社サービスが席巻していくだろう。これは、地域レベルではなくもうすこし大きなレベルで考えると、そうなるように思う。

では、NPOの存在意義は?
それはそれこそ、NPOらしくそれぞれがみなさんで決めること。
それができないのであれば、NPOである意味はないよね。
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2015年11月25日

矛盾だらけの政策

諮問会議:首相、最低賃金1000円指示 年3%増めどhttp://mainichi.jp/select/news/20151125k0000m020096000c.html

最低賃金を1000円にする
20年代の前半には、ということは7,8年後にはということになる。

現在、介護関係の職員数は200万人くらい?(あまり正確な統計はでてこない)

この会議や例の1億なんたら会議とか、で介護人材の確保とか言っている。

いまの介護制度は、最低賃金をベースにしているとしか思えない単価設定だから、そうすると、最低賃金をあげると、介護にかかる予算は増えていくことになる(はず)。

いっぽうで社会保障費は抑制。。。

単純に考えると、何か、関数が入らないと、なりたたない数式

どんな関数を入れるというのだろうか。
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2015年10月24日

ボランティア団体とNPO組織の「アイダ」に

 私のように、学生時代からボランティアにかかわって、すでに30年以上がたっている人間からしたときに、自分より10才、20才下の人たちが語るボランティア・NPO論について、思うことはあれども、時代はかわったと感じること以外にそれほど言いたいと思うことはない。
 つまり、時代は変わった のである。
 その刻々とかわる時代をまさに体現して、ボランティア・NPOの現場にいるものとしては、その時代の流れについていきつつ、本質的なものを感じていく、そして自らの仲間たちと語るしかない。

 しかしときにこういういいまわしに出会うと、「うーん」と少し悩んだりする。

「ボランティア組織が、事業型NPOへの成長に立ちはだかる「死の谷」とはなにか、どう乗り越えるのか。」
秋元祥治さんとおっしゃる方のBLOGの10月24日のエントリー記事だ。秋元さんは岐阜の「G-net・OKa-Biz」というNPOの方のようだ。

 おそらくこの15年。日本に特定非営利活動法ができ、介護保険が施行されたあたりから、日本にも事業型のNPO(注:ここでいうのは、NPO法人という意味ではなくもう少し広い)が登場し始めた。この歴史的な推移から日本では、なぜか、あたりまえのように、「ボランティア組織が事業型NPOへ成長」とか「発展」ということばが使われてきた。介護保険の導入後、ほどなくして行政の民営化方針の中での指定管理制度が広まっていく中で、そうした流れは成熟し、いったん終息した(と、私は思っている)。
 ボランティア組織からではなく、事業のための組織的受け皿としてのNPOづくりが一般的になったからである。この指定管理制度からのNPOの変化については、2008年(もう7年前!)にすでに田中弥生さんの著作をして、コメントを書いている。
NPOの行方http://totutotu.seesaa.net/article/105139234.html
NPOにとっての地獄のスパイラルhttp://totutotu.seesaa.net/article/105547084.html

つまりは、ボランティア組織の成長の先に事業型NPOというものは、単なる一つの選択肢ではないかとおもうのである。また、違う視点からも考えられるNPOは必ずしもボランティアを必要としない。(cf:「なぜボランティアか-―「思い」を生かすNPOの人づくり戦略-スーザン-エリス」

 もともと、日本型のボランティアは、その礎をいかした社協のボランティア組織が中心であった。そして、いまも、それは地域型については、かわっていないのではないか、というのが、私の所感である。もちろん、市民型仲介型ボランティアセンターが一定以上の存在感をみせている。それもわかっている。しかし、自治会型ボランティア組織を組織論的に脱せていないように思っている。

 秋元氏がいうようなリーダー論は、営利会社であれ、非営利組織であれ、組織的マネジメントを行わなければならないの組織であれば、必須である。私などは、本来はボランティア組織であれば、そういった一リーダーのリーダーシップではない、民主的なボランティア組織的マネジメントを尊重するような文化が一方で尊重されてほしいと思ってしまう。だから、私はこの世界では時代遅れなのだろう。
最後に、これも、ずいぶん前のエントリーだが、NPOの役割論として、紹介したエントリーをはりつけておく
http://totutotu.seesaa.net/article/94783792.html:アメリカ型NPOの危険性

(最後の紹介のblog内で紹介している妻鹿ふみ子氏の論文は「福祉社会の再構築 人と組織と地域を結んでに所収の論文ですhttp://honto.jp/netstore/pd-worklist_0602979668.html
posted by 凸凸 at 17:39| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

支援者のこぶしの中には「何もない」がいいとおもう

ご存じの方も多いと思うが、私はfacebookをやっている。
はじめは、何だろう?からはじまり、そのあとの東日本大震災の時にはほんとうにfacebookを大活用した。
その縁で、実際にお会いしたことのない「facebook友達」もものすごく増えた。facebookには賛否両論あるのも承知しているが、そうしてひろがった私のfacebookネットワークは閉じることもできず、だからこそプライベートネタや特定に偏った発言もできなくなり、そしてフルオープン(基本は全公開)で運用をしている。日々は、シェアネタが多いが、たまに、少し抽象的にだが、日々の中で思うことを少し長めに投稿したりする。
前置きが長くなったが、昨日の朝、ここのところのしんどい支援の続きの中で生まれてきた気持ちを少し抽象的に綴った。簡単にいえば、支援者の仕事は主体的に決定や選択をしていただけるための環境づくりであり、支援者がその人を左右してはいけないはず。という考え方が中心になっている。
facebookの記事のリンク↓facebookのアカウントをお持ち出ない方もお読みいただけると思う
https://www.facebook.com/shogo.tomita.75/posts/906290759450516?notif_t=like

 現場の仕事は、実はそう思いつつ、一定のプロセスを踏みながらも、結局のところ支援者が決定や選択をせざるを得ない事案が起こってしまう。そのことを私はものすごくしんどく感じている。責任逃れではなく、その人の選択や決定する権利を侵食してしまった懺悔だ。
 私のfacebookをみてくださっている方はいろいろな方がおられるので、立場や取り方もさまざまだ。
コメントをよせていただいた方がたのコメントをみても、それぞれのお立場、仕事、思っておられることによって、きっと受け止め方が違うのだろうなと思う。

 その中で、主体的であることを強いて決定や選択を設定すると言うこと自体がそのもの主体的でないのではなないかというコメントをいただいた。
 
 私たちは、「主体的」ということばを使うが、これは実はこれ自体が、「レトリック」である。
つまり、「つくられたことば」だ。主体的ということばが実際に、自らが誰からも命令や指示されることなく、という意味であるとするならば、実は、主体的であるということを強いられること自体が、象徴的であり、権力的であり、そして、イデオロギカルである。ことば遊びのようだが、主体的であることを他者からや社会からいわれることによって、主体的ではなくなる。
 
 しかし、私たちはそれをわかっていながら、「主体的決定や主体的選択」を支援するという。
それは、なぜだろうか。簡単にいってしまえば、運動自覚的に、主体的に決定したいと思うのに、主体的に決定できない人がいるから。そして、その犯罪的な行為をしているのが、支援者自らであるから。

 私はfacebookに書いた。
 
じわっとあけた掌を開き、じっとそこに目をやる。
その中に、人の人生の「何か」が見えてしまうような錯覚に陥る
そんな支援はしたくない。

 
 相手の人生の「何か」を自分の拳の中に入れてしまえるような、そんな錯覚に陥るような支援はいやだ。
相手との握手の中で、そのつながりのなかに、生まれるものはあると信じつつ。


 
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2015年10月05日

何年かぶりにラグビーの試合をフルで見た

たまには、こんな話題もいいでしょう猫

先週の土曜日、ラグビーのW杯。日本対サモアをTVでみました。

たぶん、はじめから最後まで、フルで、ラグビーをみたのは、10年ぶりくらいやないかなぁ。
何しろ、そもそもテレビあんまりみないし、ケーブルテレビのスポーツ番組は、あんまりラグビーやらないし、もっぱらサッカーが多いし。

で、にわかラグビーファンも多いらしいですね。世の中。もりあがっているのかぁ

ルールが昔とずいぶんかわっているのは、きいていたのですが、ほんとうにかわっているんですね。
それにともなってずいぶん戦術もかわっているから、昔と同じようにはなかなかみれないって感じ。

シンピンって、アイスホッケーみたいとか
選手の交代もどんどんOkになっているのとか、昔からすると、びっくり。

戦術もずいぶんかわっているんですよね。
昔は、FWとBKの役割が固定化されていて、スタンドオフ(10番)が中心になっていてみたいな感じやって。大学選手権で、早慶明とかが中心になっていた時代によくみていたものからすると、隔世の感。

でも、日本が世界には全然通用しなくて、100点以上とられるのが、W杯ってイメージでしたから、ほんと、すごいなぁ。。

ヘッドコーチの「すべての選手がチームのために働いた」「規律を守って」ってことばは、日本民族のように体格に劣る民族の集団スポーツの世界との戦い方の目指すところなんだろうか、なんて考えましたね。。。
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2015年08月26日

寝屋川・高槻の事件ついて(続)【自分たちの街の顔色】

 昨日のエントリーの続です。

 この事件の話は自分の街の話ですから、いやがおうでもいろいろな場面で話になります。
昨日も役所のある少人数の全く別の会議のあとにこの件に関する話題になりました。
 その際の話題の中心になったのは、夜な夜な街の中にいるこどもたちは自分たちの街の風景としてあたりまえの風景か、という話です。

 私たちは、自分たちの狭い世界と興味の中で生活しています。それは自分の生育歴と重ね合わてもです。
少し話がずれますが、私たちの小学校中学校時代=世代的には校内暴力時代、ドラマの「金八先生」の時代、尾崎豊の時代になります。

 自分たちの中学校くらいの時代を思い起こしたときに、いまの中学生の話と何が同じで何が違うのだろうか。
一夜にして、学校の窓ガラスが数十枚割られていた、蛍光灯がなくなって廊下がガラスだらけ、教室は穴だっらけ。先生が黒板に文字をかこうと生徒に背をむけたら、ものが飛ぶ。そんな中学校時代でした。
今、私が住んでいる高槻は、当時で言えば隣町ですが、いじめで運動場に真っ裸にされて、障害のある生徒さんがだされたとか、そういえば、シンナーを夜に学校に忍び込んで吸っていて亡くなった生徒さんの話とかもありました。
そんな時代の自分たちの中学生時代といまの中学生は、と。
でも、実はこの手の話はあまり意味のある話とは思えません。単なるジェネレーションギャップの話であり、いま、生きて生活している人たち(この場合は中学生)にとっては、昔の話と比べられても。。。という話でしょう。

 一方で、街の風景で気になることがあります。
 寝屋川の駅前や街の中のコンビニの前には、22時や23時をすぎても小・中学生のたむろっている姿は当たり前にみるのです。校区によっては、お母さんたちの話から、普通に家出して帰ってこないこどもたちの話をききます。いいことかわるいことかわかりませんが、この話のI君のような話も日常的にききます。
 他方、隣町の枚方市や自分の住む高槻市の21時、22時の駅前の風景といえば、塾の入り口から、塾の先生たちが集団でこどもたちを守りながら送り出す姿や迎えにくる親御さんたちの車の渋滞の列だったりします。
この差はいったいなんでしょうか。もちろん、高槻や枚方にもたむろっているこどもたちの姿がなくはありません。が、明らかに「街の『顔色』」が違います。

 私たちは一定の価値観をもとに考えます。ここまで読んでくださった方が、自分の価値観に照らし合わせて、この寝屋川と枚方・高槻の現状を読まれて、どのように思われるでしょうか。
 もちろん、いまこんな事件のあとですから、そこにバイアスがかかっているかもしれません。が多くの方が寝屋川の現状を嘆き、それはおかしいといわれるのでしょう。

 しかし、問題は昨日今日に起きたことではないのです。
 構造的にものすごく深い問題が地域の中にあり、この現状がおこっています。

 みなさんには、「事件の起こった街寝屋川」の話ではなく、一つの街の現状をして、自分たちの街の「顔色」つまりは、現状ですね。をみてほしいです。 



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2015年08月25日

寝屋川・高槻の事件について

 ご存じのように昨今、世間を騒がせている事件は、私の活動のフィールドです。

 事件が起こり、その事件がセンセーショナルであればあるほど、報道され映像や画像、文章でおおぴらにされる裏側には、多大なる影響があります。

 寝屋川市は昨日、今週末の寝屋川まつりの中止を発表しました。この事件がまだ未解決な部分が多く、こどもたちの危険を考えてというのが公式のコメント。毎年のことだが、夏休み最後の大きなお祭りに、ほぼ夜な夜な若者たちがたむろうので、いまの町中のTVカメラや好奇心にみちたジャーナリストたちのことを考えて、二次的三次的な報道の暴力から守ろうとしたというのも正直なところではないか。(そこまで考えているかどうかは不明だが)と私はおもっています。それほど、まだまだ、TVカメラやなんやが入り込み、ざわざわしています。

 あえていっておくと、寝屋川という町、これまでもさまざまな事件で、世間を騒がせています。

たとえば、
2005年の寝屋川中央小学校事件 http://yabusaka.moo.jp/neyagawasyou.htm
その前にも中学生が未明に家に押し入り、おばあさんも殺した事件というのもありました。

また、最近は少し落ち着いてきましたが、虐待・虐待死の多いまちで、何年か前に、東の方に仕事で行ったときに、大阪の寝屋川で 言うと、「あーあの虐待の多い町ですね」といわれて絶句しました。

確かに、だからこそ、行政だけでなく、学校や地域や有志が、劇的な改善はなかったかもしれませんが、コツコツとそれなりに、とりくみを続けていると思っています。

わかるひとにしかわからない話かもしれませんが、こういった犯罪が起こる地域というのは、構造的に課題があって、それは個人や家庭の問題ではなく、ソーシャル(社会的)な課題があり、また、それは、一行政区域の問題だけで解決できない課題や問題も多いです。
そういったことを一つ一つ丁寧に、気がついた人たちが解決に尽力していくしかない。

そういった取り組みは、結果としてこういったセンセーショナルな事件によって、いや、センセーショナルな事件の「報道」や評論によって、踏みにじられます。

今回、とても悲しい文章にであいました。
もちろん、大手のマスコミによってだされたり、ネットのデマめいた情報であったりは、いうに及ばずなのですが、私たちのような活動をしているものに、よりそった文章を発表しているみわよしこさんの文章です。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/miwayoshiko/20150822-00048734/

「生活保護のリアル」という著作やダイヤモンドオンラインで、いろいろな指摘をしていただいていて、私もよく読ませていただいています。このyahooニュースに掲載された文章は、まるで、「被害者の立場」という視点で、どこかの地域のような取り組みがあれば、さもこどもたちが救えたというように読めてしまいます。

寝屋川にもこどもたちの居場所をつくろうという取り組みは官民にあります。また、地域のPTA協働の取り組みもあります。

おそらくは作者は、そんなつもりはないとおっしゃるとおもいます。穿った見方かもしれません。ただ、当事者地域の活動者の立場からは、傷口に塩を塗り込まれたような文章です。おまえたちのやっていることは、無意味だったではないか、と。この地域のこの取り組みくらいやらないとだめなんだ、と。

いまは、まだ、事件の全容が明らかになっておらず、全容探しに主眼が集まっていますが、時がたてば、事件再発の対策がどう練られていくのかということに主眼がうつります。すでに、一部報道では防犯カメラの設置促進を市が補正予算でということがいわれていました。

警察の方が、地域のイベントは防犯効果があるからとおっしゃっていました。しかし、地域のおまつりのようなイベント、とくにこどもが参加するようなイベントは、きわめてやりにくくなるでしょう。

こどもたちの居場所づくりの活動も、一部は増強されるでしょうか、効果性のないものについては、(みわさんの書かれたようなとりくみでないもの)は、無視されるでしょう。

だいたい、人口23万人の町にいったい何カ所の「居場所」があればいいというのでしょう。「安心のため」に居場所があればという効果とともに、こういった事件の場合は、その人がそのときにつながっていないと、直接的な予防にはなりません。そして、その予防は評価されません。

この文章の後半には、加害者の視点ということで再犯者についての話がかかれています。この文章も、私たちの地域には痛い話です。マスコミに大々的に取り組みを報道される地域だけではなく、コツコツと取り組みを積み重ねている地域にとって、丁寧に取材をして、当事者の視点を発信してくださると思っていたライターの方が、地域の実情を無視し、取り組みをしらず、マスコミに流用している情報だけで文章をかかれていまう。

それだけ、今回の事件は、センセーショナルな事件なのでしょう。
そうして、私たちはまた地道な取り組みを、さまざまな「暴力」をうけながらも、歯を食いしばって続けていくしかないでしょう。

残念です

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2015年08月19日

何が変わったのか、何も変わっていないのか

 数日前から、ニュースのトップに、高槻・寝屋川の文字が躍っている。

 自分の住む町、自分の活動する町だ。

 否が応でも目に飛び込んでくる文字、そして、見慣れた風景。いや、ブラウン管の向こうの風景は見慣れているが、見慣れていない風景か。

 街中のコンビニで、警察官の姿。通勤に渡る枚方大橋(高槻ー枚方の国道170号の橋)の付近のものものしさ。

 事態は最悪の結果の様相をみせはじめている。

 地元で育ち、活動、仕事をしている人間にとってみると。自分が中学、高校時代とオーバーラップさせてみても、自分が活動して、見せられている現実をしても、わかるけどわかりたくなく、見せられたくない「現実結果」が入り込んでくる。

 数日前に、理不尽さを痛感させられた「人の死」の取扱いで、メンタルがたゆれのところに、この事件。
ちょっと、メンタルやばいい

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2015年08月13日

精神障害者の地域生活支援の厚み

 昨日は、寝屋川市の自立支援協議会 精神障害者部会のワーキング会議だった。
寝屋川市の自立支援協議会は他市のやり方と少し違っていて自立支援協議会といわれて、関係諸氏が思われるものとはたぶんちょっと違っている。まぁ、今日の主題はそれではない。

 昨日の会議のテーマは、保健所による受療支援と社協からの生活困窮者自立支援事業についての説明。
特に、取り上げたいのは、受療支援について。

 精神障害者の地域生活支援というテーマでいろいろと話をしたり、きいたりしても、個人的には、寝屋川できくこととの落差というか、ずれを感じることが実は多い。

 寝屋川市がとてもすばらしく完璧で、なんてことはもちろんない。
 が、実はこのテーマ、もっともっと、複合的に考えて、複眼的にみないといけないテーマであると思っている。

 当事者サイドから、精神科医療についての批判があるのも十分承知している。私も一部、主義として同意する部分もある。
 
 一方で、「精神科医療を受ける権利」ということばが関係者間で語られる。
 
 実際に、「本来」は(この「本来」が批判対象にもなり得るが)、精神科医療にアクセスしたいとご本人は思っているのだが、病状の悪化とともに、はからずも服薬ができず、さらに病状が悪化し、ひきこもり。。。という現実が実はある。
 もちろん、これらは、極めてグレーな話で、線引きが難しい。だが、地域生活のリアルの中では、家族との生活、地域での生活の中では微妙な天秤の上にのっからないといけない話もある。だから、複眼的に議論しないといけないと思うが。

 実際に行われているからいいというわけではない。もちろん、それらの事実についてきちんと精査が必要だ。警察、保健所が、できる役割を最大限に発揮できる、してもらえるには、丸投げではなく、「連続性」が必要で、本人、まわりが一緒に考えるということが必要なのだという話が、いちばん心に落ちた。

 あまり散見しない話だし、何度も書いているように、グレーでナイーブな話だが、あえて、取り上げてみた。
posted by 凸凸 at 07:52| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月12日

門外漢からみたリハビリ世界の不思議。エビデンスは科学ではないのに つぶやき

数年ぶりに再開しているtwitter(https://twitter.com/totutotu1968

いろいろなコンテンツを使っていますが、最近はまとめてBLOGに書く時間がなかなかなくて、ぱっと思いついて、書き始めると、結構まとめて、連ツイしたりしています。

今回は、最近、いろいろと興味のあるリハビリの世界の話。
本当はblogでtwitterを紹介するのは、変なので。よかったら、フォローしとってくださいませ。
blogの更新をつぶやく本来の使い方に変えたいとおもっていますので(^^)

専門外の私がいうことではないが。日本の小児リハビリのほとんどがボバース法、ボイター法に偏っているというのが事実であり、そのことをセラピスト世界の中で批判にさらされてきたということが事実であるならば、その方法論が有効であるかどうかという以前に、何か歪んだものがあるということ。

脳性麻痺の小児のリハビリが、ボバース、ボイターしかない。それを彼らが「私たちが彼らに対峙している」というならば、所詮、脳性麻痺者が置かれている「社会」的価値事情を反映しているにすぎない。それがセラピスト世界の中の、メジャーーマイノリティ事情とオーバーラップすることは想像に難くない

具体的なことはわからない。しかし、彼らの中で方針・思想の違い、隔たりは大きいようだ。門外漢である私たちにはどうでもいいが、実際の当事者に影響がでていることをして、少なくとも、その事情を客観的な事実として知っておく必要性が出てきた。統計的エビデンスのありなしなど、どこかできいた話だ

エビデンスが科学であるとだれが言い換えた?!しかし、医学、コメディカル、そして福祉の世界までエビデンスベースドという「似非科学」が侵食している。もともとは、エビデンス=科学は、イギリスでは出てなかったようだが。きわめて政治的なものであるにすぎなかった(「社会福祉学の科学性」参照)

しかし、多職種支援を考えるときに、「科学」(性)は必要だと【臨床】場面で思う。その科学は、おそらくは、それぞれの【専門家】といわれるものが行う『「依る科学」的な「援助」』にもたらされる「臨床の知」を結び付け、問い直し再構築することによりもたらされる「科学」。それが「科学」か?

それが「科学」か?ということについての問い直しをまさに臨床から行っておかないと、まさに哲学のない、科学という名の【権力】に支配されていくように思う。


posted by 凸凸 at 07:15| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月28日

ココロが血を流す事件

痛い。
調布市の飛行機墜落事故。
痛い。ココロが血を流す痛さだ。

飛行機が突然、自分の家に落ちてくる。

人生は、理不尽なことだらけだ。

自然の摂理を毎日毎日感じ続ける。

人の運命とは、を考える。
私は、宗教を信じないが、信じる人の気持ちがわかる
posted by 凸凸 at 06:33| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月14日

野本三吉さん

私がこのBLOGで、個人のお名前を紹介することはきわめて、めずらしく。

いま、この本を読ませていただいている
「命の旅人―野本三吉という生き方-大倉-直」現代書館

ご存じだろうか、野本三吉という人を。

かく言う私もそれほど懇意にさせていたいている方ではなく、実は彼が横浜市大の教員をされていたとき寝屋川市民たすけあいの会に調査できていただき、そのときにお話をさせていただき、その後、彼の個人誌「生活者」を送っていただき、数度、お会いしてお話をさせていただいただけである。
が、20代から30代にかけてものすごく影響をうけ、、結局、私が寝屋川市民たすけあいの会に居座り、活動を続けることになったきっかけになった方でもある。

その彼の半生を教え子である大倉さんという方がインタビューをもとに、書き起こした著作である。

いまの時代の社会事情
 国会での安全保障論議
 社会の貧困化
 こどもの貧困
そして、教育

教員になって一年目 四年生の担任になった。
一人一人の顔を見ながらこう語りかけた
「好きなことはどんどんやろうな。きらいなこと、どうしてもやりたくないことはやらないって、そういうことにしような」

横浜市立大学の講義で
「社会福祉とはすべての人が自分らしさを発揮し合い、お互いを認め合う社会を築くことです」

彼が私にも送ってくださっていた個人誌「生活者」を発行するきっかけになった哲学者森信三の生き方に対しての軸
「私はいつも一方的に判断をしてはいかんと考え、まったく反対の立場の意見や考え方をじっくりときき、理解しようとしてきました。多くの場合、両方の意見にはなるほどと思う部分がありますから、結局のところ、両者の意見を統合して、自分たちの見解を持つようになりますな。なにごとも同じ考えでまとまっていく純粋培養では、どこか、生命力が弱く、現実には対応できないと思います。」

posted by 凸凸 at 06:38| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月05日

もし警察につかまったらどうなるのか?民間人でも現行犯で逮捕できる 知っておいてほしい

いろいろな虐待事件の話がマスコミをにぎわしている。

まぁ、マスコミの取り上げ方など、一時期のブームのようなもので。。。といえなくもないが、
児童虐待、DV、高齢者虐待、そして、障害者虐待 と現場では、起こり続ける虐待の対応に苦慮している。

先日、山口県の下関市の障害者施設で起こった虐待の内部告発ビデオがマスコミに流れた。
その際に、ネットで、「虐待などという言い方をするからいけない。これは歴とした傷害事件である」という論調が目についた。
虐待の中で明らかに「わかりやすい」のは、身体的虐待である。実は他の虐待は、客観的にはわかりくく、虐待か否かで、見解がわかれたりする。しかし、その方のいわれるとおり、身体的な虐待は、傷害事件である。

その際に私たちは知っておきたいことがある。それは、現行犯による民間逮捕ができるということだ。
先日も、ある専門職が訪問中に、目の前で殴っているにもかかわらず、外にでて、行政に通報したなどという事案があった。わけのわからない行動としかいえない。もちろん、その場でとめて、自分が危害を加えられてしまうかもしれない、そう思う気持ちはわからなくはないが、なぜ、少なくとも警察に通報しない?民間人であっても、現行犯は逮捕することができる。もちろん、それは形式的には、みなさんがなんとなく知っているように、「警察につきだす」という表現になろうが。

あと、福祉業界の中で、最近、悲しいかな、警察に関係する事案が増えている。高齢者、障害者の窃盗事件(万引き)などだ。また、触法、累犯というケースも多い。
そのときに、みなさんあまりに、警察に捕まったら。。。という話をご存じない。
下の図は、警察に捕まった場合の簡単なプロセス図である。
犯罪の発生から刑の執行まで.jpg
これは、↓この本からの抜粋だ。
http://plus.papy.co.jp/plus/sc/sect/1-1008194-84/

少なくとも、基本になることは、知っておこう。また、知的障害の方の場合、結果として「自白のねつ造」ということが起こってしまっている。それは、初動の取り調べの時に、すでに起こっていることが多い。
初動の取り調べ時には、家族や支援者は本人に会うことはできない。それは弁護士さんにだけ許される。
が、まだ、この時期には、国選の弁護士さんをつけることはできない。
地域の中で、そういうことに協力的な弁護士さんとつながっておくか、または、当番弁護士の制度を知っておきましょうhttp://www.nichibenren.or.jp/contact/on-duty_lawyer.html

まず、知ること。そして、行動することです。

ちょっと、説教ぽくなりましたが、多くの方に知っておいていただきたいことです。
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2015年07月04日

平成27年度の 障害者総合支援法 事務処理要領

今回 あんまり流れていないので

平成27年度の 障害者総合支援法 事務処理要領です。長野県のサイトのリンクをはりつけておきます。

全国障害者介護保障協会のサイトにのったのが、6/23みたいです。
http://www.pref.nagano.lg.jp/shogai-shien/kenko/shogai/shogai/joho/jigyosha/tsuchi/index.html#支給決定関連

介護給付費等に係る支給決定事務等について(事務処理要領)(PDF:1,077KB)NEW

支給決定に関する事務処理のマニュアルです。(最新版)

障害児通所給付費に係る通所給付決定事務等について(PDF:445KB)NEW

障害児通所給付費に関する事務処理のマニュアルです。(最新版)
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2015年06月24日

社会福祉( )は科学か についての つぶやき 1

(twitterのつぶやきから)

 特に近接分野といわれるところの専門職から、福祉とは何をするのか?と、問われたらどう答えられるのか?文化とか、思想とかが違うではない、きちんとして、かつ明確な。でも、エビデンスベースという借り物の科学ではない説明ができなければならないはず。それができてきていないと思う。

 私が、大学院の時代。社会福祉論か社会福祉学か?という議論があった。いまや当たり前に社会福祉学という文字が並ぶ。きちんと学術的、科学的な議論を経て、社会福祉学といえているのか?そもそも、人文科学や社会科学が科学といえるのか、といわれる中でも少なくとも科学であると体系づけられた?

 実践学、実学であればそれはそれで、基礎科学に基づいて、実学たれば良い。介護はおそらくそうなってきている。一時期、介護福祉学なんて文字もみたが、個人的には無理があると思った。看護、家政、心理、そしてソーシャルワーく、個人的には人類学や人間関係論みたいなものを取り組んでの介護実践。

 保育士資格と介護資格の統合という話も出ているようだが、対人援助という切り口で考えたら、ありはあり。そのときに、実践をサポートする養成プログラムがきちんと実学化されて、体系化されるのかが、問題。これは、社会福祉が論であるか、学であるかとは、別問題のはず。

 逆説的に、社会福祉がソーシャルワークや、介護、保育の実学をサポートできる体系的な学問として成立できるか否か、が、本来的に問われているはず。それに社会福祉研究は答えられているのか?歴史、思想、理論、そして方法論。社会科学たる体系をきちんとできているか?池田敬正先生がいわれていた
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2015年06月02日

「池田敬正先生を偲ぶ」会のご案内         

佛教大学の池本先生が,佛教大学の元院生たちによびかけて、主催をいただいています。
ひろくよびかけていただきたいということで、掲載をさせていただきます。



「池田敬正先生を偲ぶ」会のご案内          2015.6.1

   このたび、5月2日にご逝去されました池田敬正先生の思い出とともに、皆様と
 心からの哀悼の時間を過ごしたいと考え、以下の通り偲ぶ会を開催したくご案内申し上げます。

 日時 :  9月12日土曜日 13時30分より16時まで
 場所 :  メルパルク京都 6F(当日部屋名を掲示します)
       *京都駅より徒歩1分(駅東側)
        住所 〒600-8216
京都市 下京区東洞院通七条下ル東塩小路町676番13
電話:075-352-7444

 会費 :   3000円(会場費、設備費、茶菓、資料等の費用になります)

 ・当日は平服でお越しください。
・参加ご希望の方は、会場等の準備の都合上6月30日までに
   メールの場合は
    池本美和子(ikemoto@bukkyo-u.ac.jp)   もしくは
    元村智明(motomura@kinjo.ac.jp ) まで
   FAX・郵送の場合は
    池本美和子
     600‐8834 京都市下京区和気町13−1−1103(電話・FAX 075‐361‐2028)
    までお知らせください。
               
  ★ 皆様から池田先生を偲んでの一言メッセージをいただきたく存じます。
   400〜800字程度でお寄せいただいたものをまとめまして
   当日配布したいと思います。偲ぶ会への参加・不参加にかかわらず
   お言葉をお寄せください。

 <問い合わせ先>
「池田敬正先生を偲ぶ」会 事務局
  池本美和子
600‐8834 京都市下京区和気町13−1−1103(電話・FAX 075‐361‐2028)
E-mail:ikemoto@bukkyo-u.ac.jp
   元村智明  E-mail:motomura@kinjo.ac.jp
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2015年05月07日

池田敬正先生がお亡くなりになりました。

京都府立大学名誉教授で、佛教大学、四天王寺佛教大学で教鞭をとられておられた池田敬正先生が5月2日に亡くなられましたそうです。
 お葬式は、近親者で済まされたとのことです。

 亡くなられる前日まで原稿を書かれておられ、最後まで研究者として過ごされたとのことです。

佛教大学の池本さんからご連絡いただきました。

池田先生は、私の院生時代の恩師であった先生です。

悲しい報せです


posted by 凸凸 at 17:06| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月02日

「社会運動」をめぐる・・・

 世の中はGW。一気に上がった気温となにかよくわからない空気中の物質?の中で、風邪ではないけど、鼻と目と咳とで、絶不調中。だいたい、年度末から年度初めのドタバタで、新緑の季節はどこへやら、の毎年。GWにはかなり追い詰められる毎年。そして、今年はさらに追い詰められている。
 
 追い詰められると、逃げたいモードが働いて、いつものFBでは物足らなくなり、BLOGに書き残したいモードになる。ただ、そこまで、詰まっていないので、つぶやき的に、書き起こす。

 そうそう、私、最近、twitterをメモ的にたまに、使っています。https://twitter.com/totutotu1968
頭の中の構造化を試行中です。

 で、本題のつぶやき

 そもそもは、ここ5年くらいかな、やたらに目に飛び込んでくる「左」「右」「保守」「リベラル」という文字&「社会運動」=かっこつき
 に、頭が??????になっていることが、発端。
 現政権&民主党政権時代に特に出ている感じあり。はじめ、「ネトウヨ」ってわからなくて、ネットをウヨウヨしている人たちのことだと思っていた。まじで。
 みんながあたり前に使うようになっていることに、まず、びっくりする。あ、この「みんなが」には、きっと語弊があって、「みんな」はそれほど「みんな」ではないのは、わかって使っています。念のため。

 twitterで目について、リツしてあるのですが、かの有名な?フローレンスが駒崎さんの4月29日のツウィートが興味深かった。ここでかれは「社会運動の成功のステップ」ということばを使われているのですが。
 ここでも「左派」「プロ市民」ということばが出てくる。

 「プロ市民」って変なことばですよね。でも、NPO関係者?かな、よく最近目にする。
いわゆる「保守派の人たちが、左派的運動を批判するときによく使ったりもする」かな。

 駒崎さん、有名人ですよね。直接お会いしたことはないですが。
 この1月に東京によばれて「ふわりんクルージョン」にいきましたが、そのとき、戸枝さんが駒崎さんをお呼びしていたようですね。戸枝さんが、自分のことをさておき、駒崎さんを「あつい」(だったかな)とか、いっていて、お互いに「10年前はなぁ」っていってました(笑)
話がずれました。

社会起業家という方たちが日本にも「それなりに」(ここポイント)根付いてきて、ベンチャー企業家の方たちとともに、ソーシャル・インパクトをもつようになってきました。彼らが起こそうとしている(らしい)、ムーブメントを果たして、なんとよべばいいのか。

NPO関係者としては、その指向性が、たとえば「NPOとはかくあるべき」というものであれば、それが右だろうが左だろうが否定されるべきだと、個人的には思うわけで。(これを革新とよぶのか?)
ただし、NPO関係者としては、そのことを「意識化」し、ビジョン化しておく必要があるが。

当然、その中には、「制度化」=これも、政治制度化と社会制度化とは、別に語られるべきだと思っている。
を指向しない運動=社会制度化を目指す指向など、も当然あっていいはず。

劇場化した現在社会の中で、きちんとした論証も一方で必要だと思います。そのためのメモ書きです。
きちんとしたものにするのは、かなり力が必要です。

posted by 凸凸 at 08:59| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月01日

指定難病についての動き

いよいよ固まりました。306疾病。5月中旬には告示の予定
7月には、手続きが始まるというタイムスケジュール

厚生科学審議会疾病対策部会指定難病検討委員会(第12回)資料
http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi2/0000084164.html

あとは、具体的にこの病気にあてはまった方たちにどのような形で、これらの情報を適切にお伝えできるのか
です。
posted by 凸凸 at 06:26| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月11日

放課後デイサービスの減算の考え方について

例の放課後デイサービスの減算の件について。
いろいろな人が「営業時間」だから、いままでと変わりないと言っておられる。
3月31日付けのQ&Aをみてみると確かに「営業時間」と書いてある。
が、この「営業時間」という表現は、都道府県が出している運営規程のひな形などをみていると、「サービス提供時間」のことではないのか?
運営規程および実際の利用に際して、3つの時間があると理解している。
一つは、実際にAさん、Bさん、Cさんという利用者さんが利用する「利用時間」提供実績記録票に書かれる時間だ。
二つは、事業所が運営規程に書いている実際に利用者さんを受け入れることができる体制を整えている時間。これが「サービス提供時間」これには、送迎は含まれない。
そして、三つは、事業所の職員が事業所にいる時間。これが「営業時間」だ。

もちろん、「サービス提供時間」と「営業時間」が同じ事業所もあるだろう。
通所施設の場合は、営業時間は、送迎開始前から送迎終了後まで、サービス提供時間は営業時間より短いところが多いのではないか。
居宅介護系は、逆に営業時間よりサービス提供時間の方がながい(二四時間対応していれば当然そうなる)ところも多いだろう。

とすれば、このQ&Aの文章の「営業時間」とは?上の3つに照らしたときには、「サービス提供時間」のことをさしているようにしか思えないが。。。どうだろうか。
http://www.pref.osaka.lg.jp/attach/1640/00184996/Q&A27.3.31.pdf

(開所時間減算@)
問71 開所時間減算の対象となる「6時間」はどのように判断するのか。
(答)
○ 運営規程に定める営業時間が6時間未満の場合に減算の対象となる。
運営規程に定める営業時間とは、事業所に職員を配置し、児童を受け入れ
る体制を整えている時間であって、送迎のみを行っている時間は含まれないものであり、営業時間が6時間以上であれば、結果としてすべての児童の利用時間が6時間未満であっても減算の対象とはならない。
【例】
・ 児童発達支援の営業時間を午前(9時〜12 時)、午後(13 時〜16 時)とクラス分けしている場合
→ 営業時間を@9時〜12 時、A13 時〜16 時のように分けている場合で
あっても、営業時間は6時間であり、減算の対象とならない。
・ 平日に児童発達支援と放課後等デイサービスの多機能型事業所において、児童発達支援の営業時間を午前(9時〜12 時)、放課後等デイサービスの営業時間を午後(13 時〜16 時)としている場合
→ 多機能型の特例による場合には、営業時間も合算して判断するため、
減算の対象とならない。多機能型の特例によらない場合には、児童発達
支援は営業時間が4時間未満のため減算の対象となるが、放課後等デイ
サービスについては、減算の対象とならない。
なお、「児童を受け入れる体制」とは、原則として受入可能な児童の数に
応じた人員配置基準を満たすことをいうものであるが、サービス提供時間を確保するために合理的な方法によって行う送迎の際に、直接処遇職員が添乗することにより、当該時間帯の前後に勤務していない直接処遇職員を新たに配置しない限り、人員配置基準を満たさないものの、少なくとも直接処遇職員が1人以上は事業所に配置されている場合は、「児童を受け入れる体制」として差し支えない。
また、重症心身障害児の送迎を行う場合で、今回新たに拡充された送迎加
算を算定する場合にあっては、加算により添乗する職員1人分を評価していることから、当該職員が送迎の際に添乗することにより人員配置基準を満たさない場合は、上記例外的取扱いには当たらないものであるが、送迎のみを行う時間帯については基本報酬で評価していないことから、算定して差し支えない。(完全に営業時間内に行われる送迎については、送迎加算は算定できない。)
posted by 凸凸 at 20:14| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする