2016年09月27日

医療福祉の専門職は今後どうなっていくのだろうか

今年は、平成30年度の介護保険等を改正を踏まえて、その後の大きな議論をして、いろいろと指針が出されている。

介護保険、医療保険、障害者福祉などの制度の変更、場合によっては統合とともに、人材についての議論も、大きな転換点を迎えている。

経済諮問会議で厚生労働大臣が提案した資料の中で
http://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/minutes/2016/0511/shiryo_06.pdf
医療・福祉人材の最大活用のための養成課程の見直し P4
は、専門職の屋台骨をゆるがす大きな指南である。

○ 医療・福祉の複数資格に共通の基礎課程を創設し、資格ごとの専門
課程との2階建ての養成課程へ再編することを検討。
○ 資格所持による履修期間の短縮、単位認定の拡大を検討

介護保険制度施行以後、医療福祉の人材、専門職が「コンビニ化」してきているという批判がある。
専門職養成学校は、人材的ニーズを最優先し、たくさんの人材をだすために、教育の厚みよりも人材の輩出に腐心する。教育課程は、即戦力になるように変更され、卒業して何年も臨床知を積み重ねるのではなく、コンビニ化した普遍化したまがいものの「エビデンス」治療にのみ重点化してきた。また、制度は、専門的な治療ではなく、専門家による治療、専門的治療器具による治療に点数をつけてきている。

その流れの中で、いよいよ専門職の屋台骨を揺るがす改正をおこなっていこうというのだろう。
専門職集団は、結局、本来的に自分たちの専門職アイディンティを保持することができず、即時的な既得権確保をむかうのだろうか。

ユーザーからしてみれば、そんな専門職はいらない、のであるが。




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2016年09月25日

「従属的」で「抑圧的」な賦与される「権利」

「サバルタンは語ることができるか」
もともと、ばおばぶの五十嵐さんに教えていただいた本である。

ここのところの「また」というネット上での大騒ぎに辟易している。

「大衆」の威を借りて、「国家の経済的危機」というレトリックを使い、「従属的」なものたちを「抑圧」化する言説があとをたたず。言説が言説でなくなる事態までが起こる。

だんだん、「想像力がない」というコトバでは語り尽くせなくなってきた現状に憂う。

これは、最近、「社会活動家」といわれる方にも感じる違和感に通じる。○○の手法を使い「社会課題」を解決する。「社会課題」は、「個人」の中にはない。なのに、語られる言説は、どうも「社会課題」を抱える個人を「変える」という方向にいっていないか?ターゲッティングがおかしくないだろうか?

社会全体が表面上穏健な状態を求めているから、「権利」はいつも賦与されるものでしかない。そんな社会では、結局は「従属的で」「抑圧的な」ものは、語るべきことばを持たない。だからといって、センセンショーナルなジャーナリズムをまとったインパクト活動も個人的には好まないのだが。。。

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2016年08月08日

最低時給1500円で介護の世界はなりたつのか

「25歳の単身者が生活するには時給1526円が必要」――全労連のデータが話題、2016年度の最低賃金822円との差は倍近く
2016.8.6
キャリコネ編集部
https://news.careerconnection.jp/?p=26494

 一般産業界でも時給1500円を基準にして、正規・非正規の壁をなくしてしまえば、会社が崩壊するか、失業者があふれると言われている。
 あまり具体的な論考やシュミレーションをみたことは実はなくて、おそらくはそうなるだろうという話として理解をしている。それくらい現実感がないという話なのか。

 ファーストリテイリングが世界同賃金を打ち出したときにそれも非現実的であるといわれた。グローバル経済の中で、先進国ではない労働賃金の安い国に生産を押しつけ、商品の単価をさげるという「ビジネスモデル」が前提であるわけで、そうすると当然これは非現実的であるといわれたわけだ。

 実際に、時給を1500円にしたら、どんな世界が起こるのか。

 介護/福祉/保育の世界は実は制度ビジネスが前提になっているので、それぞれの事業の単価は、国が一定のシュミレーションで決定をしている。その最たるものがヘルパー事業の単価である。
 ヘルパーは一定の時間1対1の「サービス」だから、その単価のうちのかなりのパーセンテージを人件費がしめる。かりに時給を1500円にしてみて、ヘルパー事業がなりたつか。
答えは否である。
あげてみたとすれば、どうなるか。
おそらくは、1対1のサービスであるヘルパー事業はなりたたなくなるのではないか。
それが業界的な一般的な感覚だろうね。

ヘルパーの人件費率がだいたい65%。時給1500円だすとすると逆算すると2308円。家事援助、生活援助、重度訪問、重度包括は無理になっちゃう。身体介護と行動援護しかクリアできない。となると、ヘルパーの事業所はなりたたないだろうね。

ご本人の人権を守る支援と福祉労働者の人権を守ることが相反することは、古くて新しいテーマだったけど、ますます悩ましい話になっているね
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2016年08月06日

深化しているのは何か

 介護保険の次回の見直し、平成30年度〜にむけて、平成12(2000)年からスタートしたこの制度そのものの根幹が問われかねない議論が進んでいるといわれている。が、今日、つぶやきたいことはそれではない。

 介護保険が導入されて15年。この2000年から2015年の15年間。介護保険が「あたりまえ」になる歴史の中で、介護やその周辺(医療や福祉など)が、そのことを前提にした社会(社会システムではない)になってきた。

 ここでいう「介護保険を前提にした社会」と私が指すのは、どちらかといえば、社会心理的な「社会」という意味で使っている。「制度をつくるもの(人)」「介護保険制度を活用するもの(会社・利用者・家族)」だけではなく私たちの暮らしの中で、「介護保険ありき」があたりまえになってきているという「こと」である。

 それは、介護保険があるから安心とか、高齢社会を支えるために介護保険が必要という意味ではない。

 私たちのように介護保険以前から、「福祉」=正確に言うとこのことばにも違和感があるのだが=にかかわってきたものにとってみれば、私たちのまわりの風景は激変した。

 介護保険が導入されて以降、その文化は障害者福祉にも児童福祉の分野にも広がってきた。
その方や家族が生活する上で必要なものを「ニーズ」とよび、そのニーズと「サービス」が結びつけられる。「サービス」はメニュー化、普遍化され、「ニーズ」をあてはめていく人が登場する。
 
 この「文化」があたりまえになった。

 そしてあたりまえになることによって、そのことに疑問をもつ人も少なくなった。
 
 ご本人の情報は、「サービス」を提供するために必要な情報に矮小化され、共に生きるための情報ではなくなった。また、逆に支援専門性を発揮できるような情報共有は好まざるものとされた。個人情報の同意書だけが一人歩きし、「サービス」提供の旗印の下に個人情報が行き交う。事業者はよりよい「サービス」を提供するという金字塔を掲げ、[人」を物化してやりとりする。

そして、自由は与えられた自由になり、与えられない自由を求めるものは、その管理から脱出することになり、「ナンミン」ということばを賦与される。

そんな「文化」が深化したのだこの15年は。

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2016年07月09日

マクロとミクロのあいだに

日本において「地域」は。マクロとミクロをつなぐメゾとは。

communityもlocalも「地域」。「地方」はもともと「国」に対してのことばではなかった「ぢかた」。

近世にて、移動を制限された民が、一定のルールの中で、労働生産性や生産性を高めるために集団(group)にて構成されたlocalな「クニ」。それは税の収集の仕組み。

それが、近代日本の「地域」の素。家族は素ではなく、「地方(じかた)」=生活集団としてのcommunity=「家族」との一定の連続性。familyではない、まさに漢字の意味そのままの「家・族」。

近代日本は、税の収集の仕組みをlocalな政府から中央国家に再編し、精神的に「家族」を国家レベルのイデオロギーとして結びつけた。ありもしない「大家族」をでっち上げたわけ。

こういう日本の近代史、そして、戦後の現代史の中で。

再度、マクロとミクロのあいだは?という問いかけを。実践者として意識する必要があると思っている。

ミクロ(一人や数人のケース)から、マクロにアクションを起こすことはできる。
ミクロからメゾにもアクションを起こすことはできるはずだが難しい
そして、メゾからマクロへのアクションはもっと難しい

だから、とくに社会課題については、ミクロからマクロにジャンプする。
マクロからメゾレベルの政策を変える方が容易だから(もちろん、マクロ アクションはたいへんですよ)

でも、メゾは?
ミクロからメゾ、メゾからマクロにつながるアクション

ミクロからメゾ マクロからメゾ
メゾをどうして変えていくのか。その課題にきちんと向き合おう
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2016年05月31日

地域包括ケアを推進と、高齢者福祉の効率化

他の人の書かれた文章をして、それを詳細に紹介するのは少し気が引けるのだけれど、とてもおもしろい話などでご紹介をしたい。

高山義浩さんのfacebookに5月29日に掲載された「対話」だ。
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=997883016931872&set=a.167956633257852.47153.100001305489071&type=3&theater

「地域包括ケアを推進することって、高齢者福祉の効率化になるんでしょうか?」

からはじまるこの対話。
学生さんとの飲み会での対話を紹介する形で話がすすむ。

国が進める地域包括ケアの裏側には、どんな思想が隠れているのか。

高齢者の生き方、生かされ方に話はすすむ。

そして、日本の在宅医療というのが、実は、施設介護も含めた「在宅」であること(これはシンポリックマジックなんだけど)を指摘し、

そのことをして、高齢者施設を「効率的」であるのかと問う学生さんに
カルカッタのマザーテレサが運営する『死を待つ人々の家』とタイのプラパットナンプーという寺院のありようをして問う。

高山さんは、「支配はケアではない」と説く(個人的には、ケアはすべて支配的要素を含むと思っているが、ここではそれはことばあそびになるので、彼のいうように)

そして
「病院や施設のシステムに高齢者をはめ込もうとするなら、そのようなケアは支援ではなく支配だ」と私はふたたびオッサンらしく断定的に言いました。「そんななかで効率性をめざすのなら、きっと悪循環に陥るだろう。支配には抵抗する。これが人間だからね」


と。いわれる。

あまりにも鮮やかだ。読める方は、ぜひ、高山さんの原文を読んでいただきたい。
また、朝日新聞にアピタルという連載もあるようだ。
このコラムなんかとてもおもしろい
http://www.asahi.com/articles/SDI201512286224.html

****
マザーテレサの『死を待つ人々の家』とタイのプラパットナンプーの話などは、大学院の時代に、柴田善守先生の「社会福祉の史的発展」の講義を思い出すような話だった。キリスト教と仏教の宗教思想を背景にした「人間」のとらえ方、そこで行われる人と人との営み。「ボランタス」と「共生(ともいき)」の思想。

他方で、「近代医療の支配」と地域包括ケアシステムがめざすのは、医療の支配なのか、それとも違うのか、ということを考えないといけないような気がする。
posted by 凸凸 at 07:31| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月25日

ほんとうに欲しかったのは?

 豊田勇造さんというシンガーソングライターの歌に「そんなんやない」という歌がある。
  
  屋根瓦続くこの街が
  大切にしてきたものを
  今に生かす工夫をして
  出来るだけ余分な事をしない
  俺が好きなのは そんなんや!

  もう止めてくれ妙なモノづくり
  俺たちの街をいじく回すのは
  もう止めてくれ妙なモノづくり
  俺たちの国をいじくりまわすのは
 
  本当に欲しいのは そんなんやない!

−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
私は

「当事者」でないものが、「当事者運動」が。。。ということには抵抗がある。

 しかし、いまの状況からすれば、地域生活支援は突出した一人の生活実態では進まなくなってきている気がしている。
 運動がなく、ダラッとした制度しかない自治体でできることは、ゆっくりとした全体のシステマティックな底上げ、しかなくなる。

 それももちろん、必要なことだ。
しかし、あるラインまでくると、現状のシステムメンテナンスにいっぱいいっぱいになり、もう一歩先にはいかない。

 制度の中で、制度に左右される生活 

 それでいいのかもしれないが、それがほんとうに望まれている生活か?と。

 それが自己決定であると言われれば、私たちは選択肢を増やすことをせざるを得ない。自己選択できる選択肢を増やすことで、定められた自己決定の枠を広げて自己選択をしていただけるように。しかし、みんなで、システマティックにやることは、選択肢もまた、制度枠内の選択肢を示すことにしかすぎない。
 運動の方向性が、制度の枠の中で行われ続けていけば、その運用は、最終的に、ご本人とご家族の責任に帰する。それが求めてきたものか?それがほんとうに欲しかったものなのだろうか。

 この大きな波にのまれて、みな、生きることに強いられている。

 もう一度言う。ほんとうに欲しかったのは?

 
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2016年05月03日

大規模災害をして思っていること

 このたび、熊本県を中心とした九州地域で発生した地震により亡くなられた方々へのお悔みを申し上げますとともに、被災されたみなさま、そのご家族のみなさまに心よりお見舞い申し上げます。 また、皆様の安全と一日も早い被災地の復興を心よりお祈り申し上げます。

 熊本・大分地震が起こって、半月がたった。

 今回は私自身は動けず、大阪からいち早く、また機をみて活動を行っているみなさんの活動を気持ちだけ応援している状況である。東日本のときもそうだったが、日常が落ち着いて余裕がないとなかなか直接の活動はできず、ネットをみながら、つながっているみなさんに情報を整理して流しているのが関の山である。悲しいかな。
 しかし、そんな自分でもできることは、もし、自分の地域で起きたら、を考えることである。考えるだけではだめなんだけれど。

 熊本大分地震 5月2日の時点でまだ2万人の方が避難所に身を寄せられているそうだ。

熊本県などでの一連の地震で熊本県内の避難所に身を寄せる住民の数が、最多の18万人余を数えた本震翌日に比べて1割強になったことが、県の調べでわかった。それでもなお2万557人(2日現在)が避難所にいる。熊本市は6日に「復興部」を立ち上げ、生活再建への取り組みを強化する。
 県によると、本震翌日の4月17日朝には、855カ所に18万3882人が避難。だが5月2日現在では、396カ所で2万人余りになった。(朝日新聞より抜粋)


 本震翌日の4月17日朝には、18万人以上の方が避難されたとある。

 今回の地震被害でつくづく日本の現行の災害対策では大規模の災害には対応できないことが露呈しているように感じている。それは、滑落した山や土砂災害の対策や耐震の話ではなく(そんな話が多く散見されるが)、リアルな被災されたみなさんから出てきている「避難所」中心の災害施策のありようについて、である。

 今回の地震でずっと目にしているのが、車中泊である。これまでに類のないといわれる継続する地震の恐怖に屋内ではなく車に避難をしておられる方。
 地震直後からyahoo個人ニュースでずっと発信している方の昨日の配信も車中泊。そこに書かれている被災者の方の思いにいまの日本の災害対策の限界が如実に表れているように感じる
(私はちなみにこの配信者の方の行動や内容に全面的に賛同しているわけではない。念のため)

【避難所からのメッセージ9】漂流する車中避難者のいま
http://bylines.news.yahoo.co.jp/horijun/20160502-00057305/ 

 行政が指定している避難所のそもそもの耐震性がこうして指摘されるが、行政の関係者はそもそも、市民のどのくらいの方を避難所で受け入れられる想定で災害時の計画を作っているのか、明らかにすべきである。はっきりと、全員は入れませんと言っておくべきだ。

(私が無知ですべての市民の受け入れを前提に災害計画をつくっておられる自治体があれば、教えていただきたい)

となると、避難所はあくまで避難支援拠点となるステーションであり、という前提で災害支援計画をつくっておくべきだというのが1点。

 もう一点は、仮設住宅を前提にした復興計画には今回のような規模の災害には規模的にもスピード的にも限界があるということ。
 アルピニストの野口健さんがテント村プロジェクトとテントを送ってという支援を展開
 http://www.nishinippon.co.jp/nnp/national/article/241050
 これは一時的な車中泊対策という評価ですが

 タレントの清水国明さんが仮設住宅でなくトレーラーハウスを
 http://www.j-cast.com/2016/04/19264430.html

アメリカとかでは、仮設住宅ではなくトレーラーハウスとのこと。

日本の国土にトレーラーハウスがあうのかという話は当然議論になるでしょうが、
今回のような災害が起こることをかんがえれば、日本の一大産業が車産業であるのであれば
その技術の応用から、日本の国土にあった「カーハウス」を開発し、自動車産業の社会貢献、自治体との連携によって、全国に1万台くらい常備(各自治体に10台くらい)しておいて、災害が起こったときに、広域のオペレーションをプランニングしておいて、1週間以内に必要台数を被災地域に、送ることができるようなそんなイメージをもてないだろうか。

 阪神淡路 中越 東日本 ときて、医療救急チームの緊急支援などはずいぶん進んだし、民間の物流復旧オペレーションもずいぶん進んだ感じがあるけれど、なにか根本的なものに突き当たっている感じがする。
 
 今回もまだまだ地震からの復旧がはじまったばかりですが、東日本をはじめ、全国各地のいろいろな災害で被災された方、地域の復興はまだ終わっていないところも数々あります。

 災害列島という呼び名は好きではありませんが、超高齢社会の日本は確実に災害に弱い社会になるわけですから、根本的な発想の転換をさまざまな側面で考えなければならないとつくづく思います。

この文章、もう少し後に書こうと思っていましたが、九州に比較的近い大阪でもすでにこの災害のインパクトは薄れつつあり、首都圏はすでに薄れてきているいう話もあり、また今月末に伊勢でサミットがあり、どんどんそっちにマスコミの意識は移っていくだろうと思いこの時期に書かせていただくことにしました。
まだまだ復興フェイズに変わっていないのに、心苦しいのですが。。。


 
  
 
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2016年04月23日

放送法と災害

私自身不勉強だったが、FMわいわいのラジオ免許の件から、「放送法」というやつを目にするようになって。
あらためて、今回の熊本・大分地震でマスメディアのありようについてのさまざまな話があり。
で、なんで、災害時にみんなTVのチャンネルが災害放送になるかと、
放送法にこんな条文があるんですわ。
だから、いやでもやらないといけないわけで。
報道の自由性と報道の公共性と報道の政治性などなど、かなりびみょーな話があるようです。
だからといって、マスコミがみんなでヘリコプター飛ばすのは、「被害を軽減するために」役に立ってないし、報道の方法にはいろいろと問題があるわけで。
メディアチャンネルが多様化する中で、どうやねん、という話。
高齢者が多いいまの日本で、そのメインユーザーの文化にあわせといたらいいというのは、通用しないはずなんだけど。
http://dsk.or.jp/dskwiki/index.php?%E6%94%B
放送法第108条 †
(災害の場合の放送)
第百八条  基幹放送事業者は、国内基幹放送等を行うに当たり、暴風、豪雨、洪水、地震、大規模な火事その他による災害が発生し、又は発生するおそれがある場合には、その発生を予防し、又はその被害を軽減するために役立つ放送をするようにしなければならない。
Link: 放送(505d) 災害の場合の放送(506d) 国内基幹放送等(506d) 基幹放送事業者(506d) 条文索引(放送法)(725d)
posted by 凸凸 at 09:36| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月19日

熊本地震 情報発信 2

今回は大きな余震が続いていてなかなか自宅にいるということもできにくい地域も多いと思いますが

※自宅に友人や知人の避難を受け入れていたらあなたの家は「避難所」です。 市役所へ「避難所登録」してください
http://togetter.com/li/964120

※災害時に役立つ!覚えておきたいアウトドアの知恵18
http://allabout.co.jp/gm/gc/450955/
posted by 凸凸 at 07:18| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする