2016年04月09日

成年後見制度にまつわることで、思うこと。

あまりしたくない話ではあるが。成年後見利用促進法が成立しその関連で後見人の権限を拡大する民法の改正案が国会で通った。

重度の障害のある人の支援もしている私たちとしては、後見人(保佐人)も含む方たちとの日常的なやりとりは、もちろん、福祉医療の現場での、よくわからない理解の中で、また、この社説にもあるような原理原則のご本人の意思決定を尊重するという話と、現場のそうはいかないような混沌とした現実の中で、とても悩ましいと思う。

琉球新報 社説 http://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-252943.html

最近、よくあるのが、医療の現場での後見人=家族というような扱われ方である。もちろん、私は医療の現場をしらぬわけではない。

病院にいくと、よく目にするのは、患者・家族と医療者がともに、治療にとりくんでいくというスローガンだ。
そこで思うのは、やはり、医療にアクセスをするのには、患者が医療者と意思疎通ができ、家族がしっかりいるという前提なのだ。しかし、現実はそうはいかない。単身世帯がどんどん増え、そして、認知症のお年寄りも含め、意思疎通の成立しにくい方はどんどん増えている。

インフォームドコンセントということばが市民権を得て久しい。しかし、そのことばが医療者の間に浸透するようになればなるほど、すべての情報は審らかにかつストレートに遠慮なくご本人に伝えられる。それを決定せねばならないのが、いまの医療の現場である。言っておくがここで、医療者を責めているのではない。いまの日本の医療システムがそうなってしまっている。

「ご家族の方はおられますか?」
「いえ」

「あ、でも後見人の方がおられます」
「では、後見人の方にきてもらってください。いつくらいに来られますか?」
その流れで、日常的なこともすべて、後見人に伝えようとされる。
まさに 後見人=家族 だ。

確かに後見人業務の中には、身上監護という役割がある。しかし、すべての後見人、保佐人が家族のような役割をするかといえば、そうではない。それよりも、私たちのような役割のものが日常的に支援をしていて、生活をよくよく知っていることも多い。しかし、その意見はなかなかにとおりが悪いようだ。
今度の制度改正の中で、医療同意権も付与されるときく。しかし、果たして、そんなことが後見人にできるのだろうか。誤解をまねくかもしれないが、日常的に支援者とよくよくコンタクトをとり、支援の方針の共有ができていれば、できうるだろう。しかし、現実はどうだろうか。

 今回の改正にともなって、当事者団体などから、意思決定支援の仕組みがなく、本人の権利を制限するような成年後見制度を利用促進する前に、改正をするべきだという意思表明が多く出され、先に紹介したような社説も毎日新聞、東京新聞とでたようである。
 しかし、ここでも現場の苦悩は、解消されない。
 もちろん、意思決定支援をしたい、しかし、現実には客観的にみると生活できない状況をのぞみつづけ、救急車で病院に運ばれては、自宅にもどることをくりかえしてしまうようなケースも数多くあり、共同生活をまったく受け入れない人たちは数多い。それが認知症の方になれば、後見制度をつかった本人の意思を制限してと考えてしまう現状なのだ。なぜ、そんなことがおこる?

 私はそんなことをしていないとは言わない。実際に、しているかもしれない。なぜか
 正直にいえば、圧倒的に、地域で生活しうる環境がいまや整わないのだ。制度はガサガサ、かりに制度をうまく使えるだろう人でも、人が不足して支えることができない。ベストはチョイスできない。本人の意思をストレートではなく、家族、地域をみて、客観的に本人の意思をコントロールしたいと思ってしまう。それが地域の現状ではないだろうか。
 そんな現状の中で、成年後見制度の権限が拡大すれば、どうなるか、そんなことは日の目をみるより明らかだ。

 しかし、それが医療モデルの地域包括支援システムを成り立たせるために必要とされているのだとしても、現実に押しつぶされている中では、そこに拠るしかないような気さえする。

 ケアマネや相談支援専門員が「人生」を背負わされることもおかしいと思うし、それが後見人であることも違うと思う。まさに日本的といわれてしまうような仕組みをなぜに作っていってしまうのか。

理想を語り、理念を謳い、足下の現実は地獄でも困るが、理念を語り、理念を謳えないような現実こそが問題ではないのだろうか。

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2016年04月06日

映像06「ぼちぼちはうす」から10年

あまり自分の団体のことを話たり書いたりしないのですが。
2016年3月12日 自作映像作品上映会「Affect&Effect」という取り組みをやりました(正確に言うと私はほとんど何もしていないので、うちのスタッフやボランティア、メンバーさんたちが)
その映像の一部がyoutubeに公開されています。
いまから10年前、障害者自立支援法ができるときに、たすけあいの会の日中活動の場は解体の危機にさらされました。それをMBS毎日放送のドキュメンタリー「映像06 ぼちぼちはうす」http://www.mbs.jp/eizou/06.html として、取材をうけ、放映されました。

ぼちぼちはうすのチームは「ぼちぼちの木」という作品をエントリー
 https://www.youtube.com/watch?v=HJVe5Zwqimk

メンバーはほとんどかわらないものの、スタッフは映像06当時とはずいぶんかわりましたが、相も変わらぬ楽しい日中です。この作品のナレーションをしてくれた女性は10代のときに脳の病気で失語症になった方です。映像06のときのみなさんの寄付で拡張した「新館」に通ってきてくださっている方です。
今回の映像の中には、実際の支援の様子を紹介した「くらし支援チーム」からの映像が2本ありました。映像06のときの主演のお一人多久寛子さん。映像06のときにお母様の2人のおうちの様子が移りました。枝にこだわりのある行動障害のある重度知的障害の方です。たすけあいの会の活動とともに、生きてこられたといってもいい彼女は、いま、一人暮らし(二人暮らし?)をしています。
https://www.youtube.com/watch?v=MFOlMwBsEZ4

もう1本は重度障害者等包括支援事業を使って行っている体験宿泊の様子。映像06のときのもうひとりの主演の全盲自閉症の加藤さんや自傷行為で片目をつぶしてしまっている長谷川さんたちの宿泊の様子です。
https://www.youtube.com/watch?v=pem3OfrBHAE

たまには、寝屋川市民たすけあいの会の実践の一部をご紹介してもいいかな、と思い、ご紹介させていただきます。

重い障害の人の支援をしていますとか、最重度の知的障害の方のひとりぐらしを支援しています。とかあんまり似合わないフレーズだなと思いつつ、そんな気持ちなく日々のことを素直にこうして発信してくれる、そんなうちの人たちになんとなく感動しながら。かかわってくれる人が増えてくれるといいな、と
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2016年03月03日

障害者総合支援法3年次見直しの資料

報道でも触れられていて、かくかく、SNSなどでも拡散されているようですが、一応、ご紹介

障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律及び児童福祉法の一部を改正する法律案(平成28年3月1日提出)

http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/soumu/houritu/190.html

一番下です。

これだけではなかなかわかりにくいですね。

追加
法律案の概要
法案概要.pdf法案概要.pdf

自立生活援助
  地域定着支援となにがちがうの?居宅と地域定着を併せてってことかな。地域定着の単価をあげるのではなく、整理をつけて自立生活援助に誘導かな(うちの場合)

就労定着支援
  中途半端な位置にあるな。就業・がつくるのでもなく、就労移行支援がつくるのでもなく、定着支援はどこがやるねんという議論になりそうだな。地域によって、機関は選べると言うことか。

重度訪問介護の入院先への訪問の拡大か。
 重度包括は一言もないなぁ。これは重度訪問への再委託というやりかたで抜けられるということかなぁ
 そうしてくれないと、重度包括の利用拡大とかいっても結局、重度訪問の方がいいことになっちゃうよなぁ

医ケア児はもう少し突っ込んでくるかと思ったけど、そう持ち玉がないのか。

障害児福祉計画って。。。
この最後の一文は

○ 放課後等デイサービス等の障害児通所支援や障害児入所支援については、都道府県障害児福祉計画の達成に支障を生ずるおそれがあると認めるとき(計画に定めるサービスの必要な量に達している場合等)、都道府県は事業所等の指定をしないことができる。

 放課後デイの抑制ですやん。

 個々人の支給決定量の問題とも絡むし、なかなかに、やってくれるよな。

 障害福祉計画と別立てでたてることはできないけど、委員構成とか、行政の部局構成とか、こども子育て支援計画との絡みとか、行政的にはややこしそうだな

 補装具の貸与も期待していたほどのものにはならないな。日常生活用具給付は地域生活支援事業だけど、こっちも一部貸与いれてほしいよな。ベッドとか。介護保険との絡みもあるから、厳しいだろうな

情報公開までか、第3者評価まで突っ込んでくるかと思ったけど


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2016年02月19日

奈良 暮らしネットフォーラム

明日、2月20日 奈良で行われるイベントに登壇します。
山田優さんが体調不良でこられなくなり、構成がかわります。
なので、私の出番も増え、こんなメモをお配りさせていただきました。

『今問うべきもの 私たちの“仕事”とは』
           シンポジウムメモ
                     冨田昌吾(寝屋川市民たすけあいの会)

今日のために、いろいろな方がいろいろな思いをもって、このイベントが実現されましたことを感謝いたします。

何回かの打ち合わせの中で、廣瀬明彦さんを偲ぶような話ではなく、いま、これからを話をしようということが決まっています。
私と廣瀬さんの出会いや一緒にやらせていただいたことみたいなことは、実はあんまり思い出せなくもなっていて、一体いつに出会わせていただいたのか、なぜ、だったのか、思い出せない。ただ、最初のころに、相楽作業所で、優さんがきていて、北海道の伊達の大垣さんがきていて、青葉園の寺谷さんと滋賀の中島さんがおられたイベントがあって、その夜の懇親会で、廣瀬さんに「同年代でしょ?」っていわれたことが強烈に印象深かった。実際は一回り以上、離れているのに。

打ち合わせの中で、いろいろなお話を聞かれて、(シンポジウムの中でも聞かれると思いますが)一番、困ったのは「原動力」ということばでした。私の活動の「原動力」とは何か?
実はまともに答えられないです私。

公(おおやけ)的なことばを使えば、私たちの「仕事」とは、って話をすることもできますが、たぶん、それは今日、求められている話ではないでしょう。
「仕事」ってことを考えるときに、私が昔から引用する話があって。
それは内山節さんという哲学者がある本にかかれていた「仕事」と「稼ぎ」の話。
彼はある村に住むようになって、その村人たちが「仕事」と「稼ぎ」ということばを使い分けていることを知ったそうです。
ここでいう「仕事」とはそこに暮らすための「仕事」。お金になるシゴト、ではなく、暮らしをなりたたせていくための営みのような意味です。本来、暮らすことの中にあった「仕事」が、いまは、(難しい言い方でいえば、近代は)お金を稼ぐと言うことになります。

少し、視点をかえます。
日本の社会福祉制度のこの30年の流れを考えると、そこにいろいろとみえてくるものがありますよね。
みなさんはこの問いかけに何をおこたえになられでしょうか。
私は、ここでは、「市場」と「国」と「ニーズ」と「権利」という4つのキーワードをあげたいとおもいます。
ことばあそび的にきこえるかもしれませんが。
一般的な福祉制度の変遷の中で、よくいわれるのが、介護保険を期に導入された「福祉サービスの市場化」です。
正確に言うと、「福祉サービス」といういまではあたりまえに使われることばは、私が社会福祉を勉強しはじめた90年ごろは、全く一般的なことばではありませんでした。それどころか、福祉にサービス化はなじまないという論説が語られていました。
ここでいう「サービス」とは、市場サービスのことですが。
その頃から、「サービス」ということばとともに、「ニーズ」ということばも登場します。
 ニーズは、市場により満たされるものか?
 ニーズは、国(家)により満たされるものか?
この二項論はなんとなく、聞かれたことがあるかもしれません。
では、「ニーズ」は「権利」として認められるべきものとそうでないものがあるのか否か
という問いはあまりききなれないフレーズかもしれません。
 ニーズは国(家)や市場により、すべて満たされるものなのか?(ここではべき論ではありません)どう思われますか?
 私も勉強不足でこの門答にどれだけの方がきちんと挑んでおられるのか存じ上げないのですが。

 身近なところで考えてみましょう。
 いまの福祉サービスの提供で、すべての人のニーズが満たされるでしょうか?満たすことができると思われますか?
 そんなことできるわけがない。→人もお金も足りないから
いや、ちょっと、待ってください。ここでの話はそういう話ではないです。もし、仮にご本人が望むサービスを制度的に保障し、福祉サービスが提供できた場合です。
 どうでしょうか。

 私は大阪の北の方の街の出身です。中学時代に公立の中学校のクラスに重心の友人が通ってきました。同じクラスになったときに、そのクラスには黒板の横にベッドがおかれ、そこに「彼」は通ってきていました。通学は友人たちが手伝って。その「彼」とのかかわりから、いわゆる障害のある人たちとの交流が増えました。「彼」は卒業をすることなく旅立ってしまいましたが。集会にもいきましたが、正直、あまりいい思い出はありません。きれいごとではなくシビアさを突きつけられます。思春期に、同年代の二重三重の差別をうけていた方から、「おまえはいつでも逃げられる。俺は、自分の生まれから逃げられない」とことばを投げつけられました。ものすごく印象に残っていることばです。「私が私として何ができるか」それは、漠然とした不特定な人としてではなく、「特定な(の)私」を要求されました。
 一方で、「特定の私」には限界が当然あります。一人でできることには限りがある。
 そこで悩むわけです。悩みませんか?

 「顔の見える関係」ということばがあります。福祉の世界の中では、なぜかこのことば金言ですよね。「サービス」ということばを嫌っている人たちも「サービス」ということばに乗っかって活動・事業をしている人たちも、両極端に見える群が両方とも好んで使っているように思います。不思議ではないですか?
 「サービス」ということを考えたときに、ある「goods(日本語では商品と訳されますが)」を介して取り結ばれる関係に付加される価値として、考えられる「もの」があります。
 10年くらい前かに、当時のマクドナルドの社長さんとセブンイレブンジャパンの社長さんの対談を読んだことがあります。ファーストフード対コンビニの対決対談のような記事だったかと思います。そこで、マクドナルドの「無料のスマイルによって私たちは勝ち組になれる」というような主旨のことが語られていました。日本中どこにいっても、同じマニュアルで同じ服装とオペレーションで同じ笑顔が勝ち組になる、と。
 私くらい以上の年代の方で介護保険前夜を経験している人は、これとおなじような話を当時きかれたことがある方もいらっしゃるのではないかとおもいます。2000年当時のコムスン(当時)のTVコマーシャルです。そういったベースとしてのサービス。サービスの均質性は、消費されやすい一つの「売り」(キラーコンテンツ)です。安心を売るということになるかもしれません。

 しかし、それだけでは現在の競争社会では生き残ることができない。サービスとしての付加価値を高めないと、市場では生き残ることができない。それが特に個別性が高く密室性、近接性が高いヒューマンサービスでは、個別的なニーズに対応すること=付加価値になります。なので、コマーシャルとしての「顔の見える関係」になります。

 一方で、国(家)や市場は、私たちの社会生活として考えると不完全なものです。権利として、義務化されたものとして国(家)に求めても、市場から購入をすることをしても私たちの社会生活のニーズを完全に満たすことはできないといわれています。その一つが「顔の見える関係」です。つまり、愛情であったり、対等な人間関係などは、国からも市場からも得ることはできませんが、私たちが社会生活を営んでいく上で持っている固有のニーズです。

 はじめに引用させていただいた「仕事」と「稼ぎ」の違い
では、このシンポジウムのテーマである「仕事」とは何か。
 一人一人の自分の中に、内面的に二面性を内包させるのか、否か。
答えはないと思いますが、ひとりひとりの答えを求めるプロセスの考えるヒントはそんなところにあるのかもしれません。
posted by 凸凸 at 23:02| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月06日

福祉と福祉サービスの「対象化」ー「崩していい前提」と「崩してはいけない前提」と−2

 前回のエントリーの最後が、みんな混乱しているのではないか、と書いた。

 福祉の「対象化」。

 古くから言われている話だが、最近、あんまり話題に上らないのだろうか。学会関係、研究関係からは私自身がとーんと離れてしまっているので、その世界では議論があるかもしれないが。

 福祉制度は、もともと資本主義経済社会の中で生まれてきた補足的な制度であるということを大前提として、その対象は、制度的に補足される「対象」と潜在化している「対象」とがある。たとえば、公的扶助(日本で言う生活保護)は「捕捉率」ということばを使う。

 実は、潜在化している「対象」もその制度でサポートするべき対象と、必ずしもその制度でサポートする必要はないが、他の制度との兼ね合いでサポートするべき対象がある。というのが、歴史的に社会福祉論の中で議論されてきた「対象論」だ。目指される議論として、できるかぎり、対象を対象化することによって、生活のサポートが広く行われるようにという方向性になっていくのだが、社会の流動性と構造の変容の中で、これだけではなかなかピンとこない議論になっているのかもしれない。

 加えて、この議論は、社会保障と社会福祉が混同、混乱しがちな議論でもあり、(本来は社会福祉制度は社会保障制度の一部なんだけど、日本ではどうも社会保障というのが通りが悪い)、かつ、介護保険以降日本の福祉が社会保険制度【的】な仕組みを採用していたりするから、さらに、ぐちゃぐちゃになってきている。

 対人援助サービス(イギリスでいうSocial Servicesを意識してここではつかう)が、一般的には福祉というイメージで語られる日本の中で、社会保険【的】な仕組みの中で提供されるものになってくる中で、だんだんと「サポートする対象」というイメージ自体がアンダーグラウンドな議論になっているように思う。

 一方で、福祉サービスとして、サービスが提供されるということは、利用者はそこに現実的に自己負担を払う払わないということにかかわらず(実は実際に払うと払わないでは、かなり消費者意識性が違うのだが)、「消費者」として、関係性をもつことになる。
 【サービス−消費(者)】という関係は、実は対象化の議論は、背景におしやられてしまい前面にはでてこない。この構造の中では、消費することにより、間接的に「対象」になる。

 さらに共通するのは、福祉や福祉サービスは、あくまで申請による。制度政策として、想定される対象は設定されるにしても、対象化されるわけではない。

 社会保障制度・社会福祉制度の中で、対象化される仕組みはこうしてできあがっている。そして、専門家とよばれる人たちがその制度の装置として、「タテ-ヨコ」つまり、専門的に設定される対象と制度設計的に想定されている対象を捕捉する役割を期待されて、整備される。

 もちろん、その専門家たちには、ソーシャルワーカーのようにアクション機能をもっているものもいるから、その対象を制度的な枠を超えて、問題や課題を抱えている人たちをして、訴えていくことはできうる。

が。しかし、それは、福祉という狭い枠に押し込めるものではないはずだ。

みな、忘れているのか。
福祉は制度による管理なのだ。
救済は慈善だ。

それを知っていながら、なんでも福祉(制度)に投げてはいけない。それが「崩してはいけない前提」だと私は思う。


 
posted by 凸凸 at 08:35| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月04日

「崩していい前提」と「崩してはいけない前提」と

土曜日に東京に行かせていただいての話は、前回のエントリーに書かせていただいた。

FB上では、いろいろなやりとりがあって、SNSのある種の醍醐味というか、があって、それがリアルにも少しつながって、という感じだったりする。私のFBは基本は仕事用になっているし、でも、下の世代のみなさんのような強力なツールとして意識的に活用しているものでもないので。

BLOGなぁ、と思いつつ、外に出ていろいろな方にお会いするとBLOG読んでます。といっていただけることもあって、細々ととは思っています。

土曜日のふわりんクルージョン2016の内容は、全体の概要としては、ここでいうことではないし、まぁ、また、介護保険と障害福祉の統合の話も政治家の方の口からあーしてリアルにきくと、一方で社会保障制度そのものの話とリンクして、きかないといけないことが深化してきたなぁと思う。ちょうど、12,13年前に講演によくいかせていただいたときに、支援費制度をして障害福祉施策も社会保障の一制度として、組み入れるんだという視点をもってくださいとお話していたことが、思い出される。

もうひとつ、タイトルにあげたまたしてもいつもの禅問答のような、ことばあそびのような話。「崩していい前提」と「崩してはいけない前提」

今回、私が話をさせていただいた話題の「未受診妊婦さん」の話。
福祉の人たちは、福祉が「対象を対象化」しないと成り立たないことをどこかで忘れたいのか忘れようとしているのか、と、思ってしまう。それは制度の対象という狭い枠組みではなく、それは「崩してはいけない前提」なのだと思っている。福祉の限界は対象化であるというのは、崩していい前提ではない。
一方で暮らしや生活は、枠組みは制度で決められるものではないので、いろいろな前提は崩していい前提なはずなのだ。
そういう視点でたてば、未受診の妊婦さんの課題は、福祉や保健の制度としてできることと、その制度の枠組みでは、できないことがあると思うのだ。

未受診妊婦さんの話とは違うが
どこかのNPOのリーダーの方がいうような「福祉は風俗に負けている」という挑発的なことばを、福祉の関係者は、真っ正面にうけとめつつも、きちんと反論できないといけないように思う。だんだんと、混乱しているように感じる
posted by 凸凸 at 08:23| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月30日

地域包括ケアをかんがえる

ふわりんクルージョン2016の帰りです。
今回は、セッション3に登壇させていただき短い時間ですが、お話をさせていただきました。終わったあとに、何人かの方から、消化不良というお声をいただきましたので、少し書きたいと思います。

大阪から出て、他の地域でお話を聞くと、大阪の地域の進んだところが特に医療的ケアの必要なこどもさんの療育や教育になると意識せざるを得ない。それでも、不充分なのだから、他の地域は本当にたいへんなんだろうと思う。

私などは、小中学に障害のある友人がいたし、中2のときには、教室にベッドがあり、いまでいう重症心身障害の友人が通ってきていた。登下校はバギーを押して級友が送り迎えしていた。バギーから自宅のふとんまで、抱えてなんてこともしていた。
(賛否あったが)地元の高校に、障害のある人も一緒に行こうという運動もした。その運動は、いま大阪の普通高校での受け入れにつかながっている。
 支援学校での看護師の配置だけでなく、地域の学校での看護師の配置も、いろいろあるわあるけど、結構実現している。だいたい、適就がほとんどなくなっているから、基本は行きたい進路をきちんとみてもらって選ぶ。それは、寝屋川が進んでいるのではなく。大阪全体がそういう進み方をしている。北摂出身の私などから見ると、寝屋川は療育の仕組みは進んでいるけど、教育は遅れている感じがする。運動の進んでいるところはもっと進んでいる。

医療的ケアの必要なこどもさんのことを話をすることは、もちろん必要だけど、スペシャルニーズの前にこどもの基礎的なニーズを地域で満たしていくことが、ベースになるだろうというのが、私の考え方。
となると、こどもの地域包括ケアとは、まず、ベースになるこどもの地域での育てを考えていかないといけない。つまり、以前は、共同体/家族をベースにしていた子育てを、そうではない仕組みにしないといけない。それは、一時期に言われていた福祉的視点による地域共同体の再構築のようなイメージにもつながる。そうでないと、地域社会へのparticipationは保障されない。子育てをすることで、社会的に作り出される「障害」を負うのが日本社会の現状だと思う。
   そのためには、基本的な公的なサポートづくりも、絶対に必要。母子保健法に定められている健診の現状。寝屋川でいうと4ヶ月健診の受診率が93.8パーセントと。そのあと、1歳6ヶ月、3歳と受診率が下がるという。そのフォローのための「こんにちは赤ちゃん事業」や未受診のお宅への訪問を保健師さんたちがやられている。
    健診のときの経過観察のパーセントは4ヶ月と3歳では12〜15パーセント。ただし、1歳6ヶ月は25パーセントにもなるという。25パーセントといえば、四分の一にものほる。そのこどもたちのフォロー体制をどう作っていくのか、行政の仕組みだけでは、難しい部分もある。療育センターを中心にした療育の仕組みも、現代的には少ししんどくなってきているものもある。また、仕組みを補完するために、自立支援協議会でサポート手帳を作った。もっと、根付かせていきたい。

自立支援協議会は、寝屋川は独自のやり方で進めてきた。
精神障害者部会の中で、繰り返し出てきた母子のケース。母に障害があり。。。
母を支援する機関とこどもを支援する機関の対立を相互の理解を深めようと、行政が橋渡しをし、要保護児童対策協議会へ精神科クリニックのケースワーカーさんが参画し、勉強会。その中で、逆に、発達障害のあるこどもさんの「育てにくさ」から起こる虐待の話を一緒に考えていこう、という機運。

寝屋川という町。悲しいかな虐待がとても多い町。昨夏のような事件もおこった。「36歳でおばあちゃん」にびっくりしない。衛星都市型の貧困地域。小学校の保護家庭率が30、40.パーセントにのぼる学校もいくつもある。
貧困の問題、学校にいけないこども。朝、お母さんが起きないから朝ごはんがたべられず、先生が迎えにいき、朝ごはんを食べさせてから学校に連れてくる。
そんなことにびっくりしない。
貧困の世代間連鎖。なんとか、止めたい。逆に、地域のアンテナを高く、みんな考えている。そんな中でおこった事件の、影響は計りしえない。でも、前に進むしかない。

昨年、医療ケアの必要な子どもたちのことを考えるための研修会を開催。NICUからのこどもは、大阪では、保健所に連絡が入る。保健所と行政とのコラボできいた隣の圏域の周産期医療センターのmswの話。

未受診妊婦の多さと、たいへんさ。社会的ハイリスクな妊婦さんたち。生まれきたこどもさんのNICU率の高さ、未成年のお母さんの問題だけではない家族に知的障害や精神障害がある世帯からの出産。妊産婦教室への働きかけから入らないとダメだ。
誰もが、安心して産み育てられる地域づくり。その先にスペシャルニーズの保障もあるはず。

  シンポストの方が小児慢性特定疾患の相談事業のことをお話されたので、つい自分のことを話してしまったのは、余計な話だったな。

最後に話した「地域の強み」を探すはいつも、考えていることです。みんなで、自分の地域の強みを探して。伸ばしましょう
posted by 凸凸 at 21:20| 大阪 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月26日

マガウものの世界の危機

(Twitter @totutotu1968より)

「支え手」と「受け手」という二項をできるだけあいまいにして、相互性を高めて「支え合い」を作り出す。理想論として語られてきた(いる)この支え合いの仕組みは、「サービス」という世界の中でそこに「金」を媒介にするとマガウものを生み出す。が、また、そのマガウものをわかりながらもマガウことをあえてはっきりさせずに、コーディネートしてくると、そこに「オモロイ」ものが生み出されてきた。しかし、サービス世界が生み出す「弱くある自由」の副産物は、マガウことへの「ヨワイ」ものの親近性を強くしすぎ、弱いものたちの保守的なコミュニティを生み出す力動性を強くする

マガウものたちの世界は、自分たちの弱さを「弱くある自由」を享受する強さであるという自覚がある間は大丈夫であるが、サービス世界の強い権力により、「敗北者」の心理が強く働き始めると、マガウものたちの世界が運動性を失い、単なる共依存集団か、悪くするとその世界の中に権力性をもってしまう

また、別のエッセンスで、マガウものたちの世界の中で、支えられなければ生きていけない力がより強く働きバランスが崩れると、バーチャルな市場性が崩れていく。サービスを享受し合うという対等性をバーチャルな市場性をかりておこなっていることのバランスが崩れると、コミュニティが崩れるのだ。

いまの社会は、弱いものが強くあるために集まる集団を、弱いものを弱くしているほうがいい強いものたちの権力によって、見た目同じように作り出している。

Aa h 弱いものが集まって強くなるという幻想までが消費され、権力化される。「内なる開放」によって、「内なる解放」が行われるような幻想

弱くある自由すら、自由という消費財にされる。福祉や介護はすでに消費財にすぎず、自由すら獲得せずに与えられる消費剤でしかない。

自由の値段はいくら?

そして、マガウものたちの世界のコミュニティも、いよいよ消費財にされはじめているのだ。権力に対峙する運動性は、ミレニアム世界の中では、同床異夢にすぎず、旧来の権力運動性をもつものからは、粛正の対象にされる。

守るべきものは、自らか。自分たちか。仲間か。社会か。


posted by 凸凸 at 07:37| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月01日

年男の新年の所感

新しい年を迎えられたこと、お慶び申し上げます。
いろいろなお正月を迎えられたことと思います。

昨年は世界中、そして日本、騒がしい一年だったように思います。
平和の尊さを感じなければいけないと痛感した年だったと思います。それは、テロや戦争ということだけでなく、私たちの日常生活がいろいろな形で脅かされていることをかんじるという意味でです。

私たちは「豊かさ」という幻想を興じし、過ごしていますが、それが夢想であることを徐々にわかってきているようにおもいます。少しずつ、豊かさの夢想の実をかみしめていけるように、とおもいます。

昨年は、新年の目標が年間10日の休み!でした。情けない話ですが、ほんとうに休めていない生活です。
2回の3日間の旅行を入れて、ようやく達成という情けなさ。
沖縄とグアムを相方と行ってきました。
facebook、年賀状の写真は、そのときの写真です。
グアムといってもリゾートぽい旅行ではなくですが、何しろ、ずいぶん久しぶりの海外でした。

仕事は、少しずつですが変わってきてはいます。
今年は、1月の末に東京、ふわりんインクルージョン、2月20日に奈良のフォーラムに登壇します。昨年3月の西宮フォーラム夜の部の続きということで。
あいかわらず、そんなに外に出て、お話をすることもなく、地域にこもっている感じです。
もう少し外に出てもいいかなと、思いつつ、時代からは取り残された感じですね。発進力も弱くなりました。

ともあれ、今年もよろしくお願いいたします。
今年の目標はまだたてられていませんが、もう少し、発進力を高めていきたいですね。
posted by 凸凸 at 07:39| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月19日

ソーシャルワーク、ケアワークの実施プロセスとPDCAサイクル、誰のための何のための管理か

 今週の火曜日に、私の所属している団体に府の実地指導が入った。障害者総合支援法に基づく実地指導というやつである。
 
 この実地指導にまつわって思ったことなどを、少し綴っておきたいとおもい、久しぶりにBLOGを書くことにする。が、通知がきてから2週間強、恥ずかしながら、ひっくりかえって、日常にかなりの影響がでたので、どこまで書けるか。。。もともとが、いっぱいいっぱいどころか、ご存じのようにむちゃくちゃな状況なので、さて、果たしてどこまで、時間がつくれるか。

 法律に基づくと言いつつ、実際に、うちに実地指導がきたのは、12年ぶり。障害者自立支援法の間には一度も来なかった。重度障害者等包括支援事業をやっているから、あんなややこしい事業をやっているから実地指導にこれないのでは?といわれる始末。実際に、制度そのものの不備で、実地指導ができなかった(国にもちかえられた事項がかなりあった)。この件は、また、別途。

 そういったまつわることは、もちろんたくさんあったが、一番唖然として、これでいいのか、と思うことを、今日は急ぎ書きたい。

 何かというと、「アセスメント」→「計画」→「実施」→「モニタリング」というサイクルについてである。

 福祉関係の諸氏は、何をいいだすんだ?と思われるかもしれない。

 そうです。いわゆるソーシャルワークのプロセスの基本となるもの。
 今回、一番、指摘をうけたのが、それ。いまや、サービス提供は、すべて詳細なところまで、このサイクルによって、書類管理をもとめられるのですね。びっくりしました。

 え?
 なにをいっているんですか?って?

 すいません。だって、おかしいですよ。
 
 本来、ソーシャルワーク、ケアワークの実施プロセスは、インテークから入り、いろいろなアセスメントスキルをワーカーが発揮しつつ、ご本人とともに、プランニングを行って、支援に結びつけていくものです。それがスキル。そのためのプロセス。
 一人の人がとったアセスメントシートをだれもが見れるようにして、形式的なプランをだれもが実施されるようにするものでは、ソーシャルワークのプロセスとは似て非なる物です。
私はそう思います。

 そう、これは、PDCAサイクルなんです。業務管理のための手法。
もちろん、業務管理の必要性も否定しませんし、それは組織マネジメントをおこなっていくためには必要なものです。ただ、それを一緒にすると言うことは、組織管理のために、ご本人を「管理」することでしかない。
 そのプロセスの中で、本人に家族に「確認」をすることを強いられるということは、本人に納得させるだけでしかない。
 
 あー、いつのまに、こんなことになってしまっているのだ。浦島太郎のよう。。。

 うちみたいに、制度の想定を超えている方の支援を主にさせていただいているところだと、どうにもならないぞーと。

 おっと時間切れ。
 また、続き 書ければ書きます


 
posted by 凸凸 at 07:37| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする