2016年02月06日

福祉と福祉サービスの「対象化」ー「崩していい前提」と「崩してはいけない前提」と−2

 前回のエントリーの最後が、みんな混乱しているのではないか、と書いた。

 福祉の「対象化」。

 古くから言われている話だが、最近、あんまり話題に上らないのだろうか。学会関係、研究関係からは私自身がとーんと離れてしまっているので、その世界では議論があるかもしれないが。

 福祉制度は、もともと資本主義経済社会の中で生まれてきた補足的な制度であるということを大前提として、その対象は、制度的に補足される「対象」と潜在化している「対象」とがある。たとえば、公的扶助(日本で言う生活保護)は「捕捉率」ということばを使う。

 実は、潜在化している「対象」もその制度でサポートするべき対象と、必ずしもその制度でサポートする必要はないが、他の制度との兼ね合いでサポートするべき対象がある。というのが、歴史的に社会福祉論の中で議論されてきた「対象論」だ。目指される議論として、できるかぎり、対象を対象化することによって、生活のサポートが広く行われるようにという方向性になっていくのだが、社会の流動性と構造の変容の中で、これだけではなかなかピンとこない議論になっているのかもしれない。

 加えて、この議論は、社会保障と社会福祉が混同、混乱しがちな議論でもあり、(本来は社会福祉制度は社会保障制度の一部なんだけど、日本ではどうも社会保障というのが通りが悪い)、かつ、介護保険以降日本の福祉が社会保険制度【的】な仕組みを採用していたりするから、さらに、ぐちゃぐちゃになってきている。

 対人援助サービス(イギリスでいうSocial Servicesを意識してここではつかう)が、一般的には福祉というイメージで語られる日本の中で、社会保険【的】な仕組みの中で提供されるものになってくる中で、だんだんと「サポートする対象」というイメージ自体がアンダーグラウンドな議論になっているように思う。

 一方で、福祉サービスとして、サービスが提供されるということは、利用者はそこに現実的に自己負担を払う払わないということにかかわらず(実は実際に払うと払わないでは、かなり消費者意識性が違うのだが)、「消費者」として、関係性をもつことになる。
 【サービス−消費(者)】という関係は、実は対象化の議論は、背景におしやられてしまい前面にはでてこない。この構造の中では、消費することにより、間接的に「対象」になる。

 さらに共通するのは、福祉や福祉サービスは、あくまで申請による。制度政策として、想定される対象は設定されるにしても、対象化されるわけではない。

 社会保障制度・社会福祉制度の中で、対象化される仕組みはこうしてできあがっている。そして、専門家とよばれる人たちがその制度の装置として、「タテ-ヨコ」つまり、専門的に設定される対象と制度設計的に想定されている対象を捕捉する役割を期待されて、整備される。

 もちろん、その専門家たちには、ソーシャルワーカーのようにアクション機能をもっているものもいるから、その対象を制度的な枠を超えて、問題や課題を抱えている人たちをして、訴えていくことはできうる。

が。しかし、それは、福祉という狭い枠に押し込めるものではないはずだ。

みな、忘れているのか。
福祉は制度による管理なのだ。
救済は慈善だ。

それを知っていながら、なんでも福祉(制度)に投げてはいけない。それが「崩してはいけない前提」だと私は思う。


 
posted by 凸凸 at 08:35| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月04日

「崩していい前提」と「崩してはいけない前提」と

土曜日に東京に行かせていただいての話は、前回のエントリーに書かせていただいた。

FB上では、いろいろなやりとりがあって、SNSのある種の醍醐味というか、があって、それがリアルにも少しつながって、という感じだったりする。私のFBは基本は仕事用になっているし、でも、下の世代のみなさんのような強力なツールとして意識的に活用しているものでもないので。

BLOGなぁ、と思いつつ、外に出ていろいろな方にお会いするとBLOG読んでます。といっていただけることもあって、細々ととは思っています。

土曜日のふわりんクルージョン2016の内容は、全体の概要としては、ここでいうことではないし、まぁ、また、介護保険と障害福祉の統合の話も政治家の方の口からあーしてリアルにきくと、一方で社会保障制度そのものの話とリンクして、きかないといけないことが深化してきたなぁと思う。ちょうど、12,13年前に講演によくいかせていただいたときに、支援費制度をして障害福祉施策も社会保障の一制度として、組み入れるんだという視点をもってくださいとお話していたことが、思い出される。

もうひとつ、タイトルにあげたまたしてもいつもの禅問答のような、ことばあそびのような話。「崩していい前提」と「崩してはいけない前提」

今回、私が話をさせていただいた話題の「未受診妊婦さん」の話。
福祉の人たちは、福祉が「対象を対象化」しないと成り立たないことをどこかで忘れたいのか忘れようとしているのか、と、思ってしまう。それは制度の対象という狭い枠組みではなく、それは「崩してはいけない前提」なのだと思っている。福祉の限界は対象化であるというのは、崩していい前提ではない。
一方で暮らしや生活は、枠組みは制度で決められるものではないので、いろいろな前提は崩していい前提なはずなのだ。
そういう視点でたてば、未受診の妊婦さんの課題は、福祉や保健の制度としてできることと、その制度の枠組みでは、できないことがあると思うのだ。

未受診妊婦さんの話とは違うが
どこかのNPOのリーダーの方がいうような「福祉は風俗に負けている」という挑発的なことばを、福祉の関係者は、真っ正面にうけとめつつも、きちんと反論できないといけないように思う。だんだんと、混乱しているように感じる
posted by 凸凸 at 08:23| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月30日

地域包括ケアをかんがえる

ふわりんクルージョン2016の帰りです。
今回は、セッション3に登壇させていただき短い時間ですが、お話をさせていただきました。終わったあとに、何人かの方から、消化不良というお声をいただきましたので、少し書きたいと思います。

大阪から出て、他の地域でお話を聞くと、大阪の地域の進んだところが特に医療的ケアの必要なこどもさんの療育や教育になると意識せざるを得ない。それでも、不充分なのだから、他の地域は本当にたいへんなんだろうと思う。

私などは、小中学に障害のある友人がいたし、中2のときには、教室にベッドがあり、いまでいう重症心身障害の友人が通ってきていた。登下校はバギーを押して級友が送り迎えしていた。バギーから自宅のふとんまで、抱えてなんてこともしていた。
(賛否あったが)地元の高校に、障害のある人も一緒に行こうという運動もした。その運動は、いま大阪の普通高校での受け入れにつかながっている。
 支援学校での看護師の配置だけでなく、地域の学校での看護師の配置も、いろいろあるわあるけど、結構実現している。だいたい、適就がほとんどなくなっているから、基本は行きたい進路をきちんとみてもらって選ぶ。それは、寝屋川が進んでいるのではなく。大阪全体がそういう進み方をしている。北摂出身の私などから見ると、寝屋川は療育の仕組みは進んでいるけど、教育は遅れている感じがする。運動の進んでいるところはもっと進んでいる。

医療的ケアの必要なこどもさんのことを話をすることは、もちろん必要だけど、スペシャルニーズの前にこどもの基礎的なニーズを地域で満たしていくことが、ベースになるだろうというのが、私の考え方。
となると、こどもの地域包括ケアとは、まず、ベースになるこどもの地域での育てを考えていかないといけない。つまり、以前は、共同体/家族をベースにしていた子育てを、そうではない仕組みにしないといけない。それは、一時期に言われていた福祉的視点による地域共同体の再構築のようなイメージにもつながる。そうでないと、地域社会へのparticipationは保障されない。子育てをすることで、社会的に作り出される「障害」を負うのが日本社会の現状だと思う。
   そのためには、基本的な公的なサポートづくりも、絶対に必要。母子保健法に定められている健診の現状。寝屋川でいうと4ヶ月健診の受診率が93.8パーセントと。そのあと、1歳6ヶ月、3歳と受診率が下がるという。そのフォローのための「こんにちは赤ちゃん事業」や未受診のお宅への訪問を保健師さんたちがやられている。
    健診のときの経過観察のパーセントは4ヶ月と3歳では12〜15パーセント。ただし、1歳6ヶ月は25パーセントにもなるという。25パーセントといえば、四分の一にものほる。そのこどもたちのフォロー体制をどう作っていくのか、行政の仕組みだけでは、難しい部分もある。療育センターを中心にした療育の仕組みも、現代的には少ししんどくなってきているものもある。また、仕組みを補完するために、自立支援協議会でサポート手帳を作った。もっと、根付かせていきたい。

自立支援協議会は、寝屋川は独自のやり方で進めてきた。
精神障害者部会の中で、繰り返し出てきた母子のケース。母に障害があり。。。
母を支援する機関とこどもを支援する機関の対立を相互の理解を深めようと、行政が橋渡しをし、要保護児童対策協議会へ精神科クリニックのケースワーカーさんが参画し、勉強会。その中で、逆に、発達障害のあるこどもさんの「育てにくさ」から起こる虐待の話を一緒に考えていこう、という機運。

寝屋川という町。悲しいかな虐待がとても多い町。昨夏のような事件もおこった。「36歳でおばあちゃん」にびっくりしない。衛星都市型の貧困地域。小学校の保護家庭率が30、40.パーセントにのぼる学校もいくつもある。
貧困の問題、学校にいけないこども。朝、お母さんが起きないから朝ごはんがたべられず、先生が迎えにいき、朝ごはんを食べさせてから学校に連れてくる。
そんなことにびっくりしない。
貧困の世代間連鎖。なんとか、止めたい。逆に、地域のアンテナを高く、みんな考えている。そんな中でおこった事件の、影響は計りしえない。でも、前に進むしかない。

昨年、医療ケアの必要な子どもたちのことを考えるための研修会を開催。NICUからのこどもは、大阪では、保健所に連絡が入る。保健所と行政とのコラボできいた隣の圏域の周産期医療センターのmswの話。

未受診妊婦の多さと、たいへんさ。社会的ハイリスクな妊婦さんたち。生まれきたこどもさんのNICU率の高さ、未成年のお母さんの問題だけではない家族に知的障害や精神障害がある世帯からの出産。妊産婦教室への働きかけから入らないとダメだ。
誰もが、安心して産み育てられる地域づくり。その先にスペシャルニーズの保障もあるはず。

  シンポストの方が小児慢性特定疾患の相談事業のことをお話されたので、つい自分のことを話してしまったのは、余計な話だったな。

最後に話した「地域の強み」を探すはいつも、考えていることです。みんなで、自分の地域の強みを探して。伸ばしましょう
posted by 凸凸 at 21:20| 大阪 ☁| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月26日

マガウものの世界の危機

(Twitter @totutotu1968より)

「支え手」と「受け手」という二項をできるだけあいまいにして、相互性を高めて「支え合い」を作り出す。理想論として語られてきた(いる)この支え合いの仕組みは、「サービス」という世界の中でそこに「金」を媒介にするとマガウものを生み出す。が、また、そのマガウものをわかりながらもマガウことをあえてはっきりさせずに、コーディネートしてくると、そこに「オモロイ」ものが生み出されてきた。しかし、サービス世界が生み出す「弱くある自由」の副産物は、マガウことへの「ヨワイ」ものの親近性を強くしすぎ、弱いものたちの保守的なコミュニティを生み出す力動性を強くする

マガウものたちの世界は、自分たちの弱さを「弱くある自由」を享受する強さであるという自覚がある間は大丈夫であるが、サービス世界の強い権力により、「敗北者」の心理が強く働き始めると、マガウものたちの世界が運動性を失い、単なる共依存集団か、悪くするとその世界の中に権力性をもってしまう

また、別のエッセンスで、マガウものたちの世界の中で、支えられなければ生きていけない力がより強く働きバランスが崩れると、バーチャルな市場性が崩れていく。サービスを享受し合うという対等性をバーチャルな市場性をかりておこなっていることのバランスが崩れると、コミュニティが崩れるのだ。

いまの社会は、弱いものが強くあるために集まる集団を、弱いものを弱くしているほうがいい強いものたちの権力によって、見た目同じように作り出している。

Aa h 弱いものが集まって強くなるという幻想までが消費され、権力化される。「内なる開放」によって、「内なる解放」が行われるような幻想

弱くある自由すら、自由という消費財にされる。福祉や介護はすでに消費財にすぎず、自由すら獲得せずに与えられる消費剤でしかない。

自由の値段はいくら?

そして、マガウものたちの世界のコミュニティも、いよいよ消費財にされはじめているのだ。権力に対峙する運動性は、ミレニアム世界の中では、同床異夢にすぎず、旧来の権力運動性をもつものからは、粛正の対象にされる。

守るべきものは、自らか。自分たちか。仲間か。社会か。


posted by 凸凸 at 07:37| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月01日

年男の新年の所感

新しい年を迎えられたこと、お慶び申し上げます。
いろいろなお正月を迎えられたことと思います。

昨年は世界中、そして日本、騒がしい一年だったように思います。
平和の尊さを感じなければいけないと痛感した年だったと思います。それは、テロや戦争ということだけでなく、私たちの日常生活がいろいろな形で脅かされていることをかんじるという意味でです。

私たちは「豊かさ」という幻想を興じし、過ごしていますが、それが夢想であることを徐々にわかってきているようにおもいます。少しずつ、豊かさの夢想の実をかみしめていけるように、とおもいます。

昨年は、新年の目標が年間10日の休み!でした。情けない話ですが、ほんとうに休めていない生活です。
2回の3日間の旅行を入れて、ようやく達成という情けなさ。
沖縄とグアムを相方と行ってきました。
facebook、年賀状の写真は、そのときの写真です。
グアムといってもリゾートぽい旅行ではなくですが、何しろ、ずいぶん久しぶりの海外でした。

仕事は、少しずつですが変わってきてはいます。
今年は、1月の末に東京、ふわりんインクルージョン、2月20日に奈良のフォーラムに登壇します。昨年3月の西宮フォーラム夜の部の続きということで。
あいかわらず、そんなに外に出て、お話をすることもなく、地域にこもっている感じです。
もう少し外に出てもいいかなと、思いつつ、時代からは取り残された感じですね。発進力も弱くなりました。

ともあれ、今年もよろしくお願いいたします。
今年の目標はまだたてられていませんが、もう少し、発進力を高めていきたいですね。
posted by 凸凸 at 07:39| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月19日

ソーシャルワーク、ケアワークの実施プロセスとPDCAサイクル、誰のための何のための管理か

 今週の火曜日に、私の所属している団体に府の実地指導が入った。障害者総合支援法に基づく実地指導というやつである。
 
 この実地指導にまつわって思ったことなどを、少し綴っておきたいとおもい、久しぶりにBLOGを書くことにする。が、通知がきてから2週間強、恥ずかしながら、ひっくりかえって、日常にかなりの影響がでたので、どこまで書けるか。。。もともとが、いっぱいいっぱいどころか、ご存じのようにむちゃくちゃな状況なので、さて、果たしてどこまで、時間がつくれるか。

 法律に基づくと言いつつ、実際に、うちに実地指導がきたのは、12年ぶり。障害者自立支援法の間には一度も来なかった。重度障害者等包括支援事業をやっているから、あんなややこしい事業をやっているから実地指導にこれないのでは?といわれる始末。実際に、制度そのものの不備で、実地指導ができなかった(国にもちかえられた事項がかなりあった)。この件は、また、別途。

 そういったまつわることは、もちろんたくさんあったが、一番唖然として、これでいいのか、と思うことを、今日は急ぎ書きたい。

 何かというと、「アセスメント」→「計画」→「実施」→「モニタリング」というサイクルについてである。

 福祉関係の諸氏は、何をいいだすんだ?と思われるかもしれない。

 そうです。いわゆるソーシャルワークのプロセスの基本となるもの。
 今回、一番、指摘をうけたのが、それ。いまや、サービス提供は、すべて詳細なところまで、このサイクルによって、書類管理をもとめられるのですね。びっくりしました。

 え?
 なにをいっているんですか?って?

 すいません。だって、おかしいですよ。
 
 本来、ソーシャルワーク、ケアワークの実施プロセスは、インテークから入り、いろいろなアセスメントスキルをワーカーが発揮しつつ、ご本人とともに、プランニングを行って、支援に結びつけていくものです。それがスキル。そのためのプロセス。
 一人の人がとったアセスメントシートをだれもが見れるようにして、形式的なプランをだれもが実施されるようにするものでは、ソーシャルワークのプロセスとは似て非なる物です。
私はそう思います。

 そう、これは、PDCAサイクルなんです。業務管理のための手法。
もちろん、業務管理の必要性も否定しませんし、それは組織マネジメントをおこなっていくためには必要なものです。ただ、それを一緒にすると言うことは、組織管理のために、ご本人を「管理」することでしかない。
 そのプロセスの中で、本人に家族に「確認」をすることを強いられるということは、本人に納得させるだけでしかない。
 
 あー、いつのまに、こんなことになってしまっているのだ。浦島太郎のよう。。。

 うちみたいに、制度の想定を超えている方の支援を主にさせていただいているところだと、どうにもならないぞーと。

 おっと時間切れ。
 また、続き 書ければ書きます


 
posted by 凸凸 at 07:37| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月28日

介護保険におけるNPOの時代は終わりに近づいている?!

このところのみなさんとのやりとりで。

介護保険がはじまって15年。
それこそ、その前夜からNPOはある種、その主役の一端を担ってきたと思う。

事業型NPOなることばができ、介護保険からみてもNPOの存在は大きかった。

しかし、15年たって、というより数年前よりおそらく、その構図は、変わってきている。

介護保険制度そのものからみると、NPO法人立の事業所は数が増え度も、シェアはわずか。ということは、零細事業所でしかない。
また、事業運営規程や運営前提も株式会社を前提にしたものにかわってきている。大規模を前提にした社会福祉法人か、株式会社かという選択肢の中で、NPO法人は介護保険事業にその中軸を今後もちうるのだろうか、という疑問がわいてくる。

NPOに期待されるのは、保険外のサービスであるというのは、よくいわれるが、それも早晩、ニッチな市場として株式会社サービスが席巻していくだろう。これは、地域レベルではなくもうすこし大きなレベルで考えると、そうなるように思う。

では、NPOの存在意義は?
それはそれこそ、NPOらしくそれぞれがみなさんで決めること。
それができないのであれば、NPOである意味はないよね。
posted by 凸凸 at 11:41| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月25日

矛盾だらけの政策

諮問会議:首相、最低賃金1000円指示 年3%増めどhttp://mainichi.jp/select/news/20151125k0000m020096000c.html

最低賃金を1000円にする
20年代の前半には、ということは7,8年後にはということになる。

現在、介護関係の職員数は200万人くらい?(あまり正確な統計はでてこない)

この会議や例の1億なんたら会議とか、で介護人材の確保とか言っている。

いまの介護制度は、最低賃金をベースにしているとしか思えない単価設定だから、そうすると、最低賃金をあげると、介護にかかる予算は増えていくことになる(はず)。

いっぽうで社会保障費は抑制。。。

単純に考えると、何か、関数が入らないと、なりたたない数式

どんな関数を入れるというのだろうか。
posted by 凸凸 at 07:04| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月24日

ボランティア団体とNPO組織の「アイダ」に

 私のように、学生時代からボランティアにかかわって、すでに30年以上がたっている人間からしたときに、自分より10才、20才下の人たちが語るボランティア・NPO論について、思うことはあれども、時代はかわったと感じること以外にそれほど言いたいと思うことはない。
 つまり、時代は変わった のである。
 その刻々とかわる時代をまさに体現して、ボランティア・NPOの現場にいるものとしては、その時代の流れについていきつつ、本質的なものを感じていく、そして自らの仲間たちと語るしかない。

 しかしときにこういういいまわしに出会うと、「うーん」と少し悩んだりする。

「ボランティア組織が、事業型NPOへの成長に立ちはだかる「死の谷」とはなにか、どう乗り越えるのか。」
秋元祥治さんとおっしゃる方のBLOGの10月24日のエントリー記事だ。秋元さんは岐阜の「G-net・OKa-Biz」というNPOの方のようだ。

 おそらくこの15年。日本に特定非営利活動法ができ、介護保険が施行されたあたりから、日本にも事業型のNPO(注:ここでいうのは、NPO法人という意味ではなくもう少し広い)が登場し始めた。この歴史的な推移から日本では、なぜか、あたりまえのように、「ボランティア組織が事業型NPOへ成長」とか「発展」ということばが使われてきた。介護保険の導入後、ほどなくして行政の民営化方針の中での指定管理制度が広まっていく中で、そうした流れは成熟し、いったん終息した(と、私は思っている)。
 ボランティア組織からではなく、事業のための組織的受け皿としてのNPOづくりが一般的になったからである。この指定管理制度からのNPOの変化については、2008年(もう7年前!)にすでに田中弥生さんの著作をして、コメントを書いている。
NPOの行方http://totutotu.seesaa.net/article/105139234.html
NPOにとっての地獄のスパイラルhttp://totutotu.seesaa.net/article/105547084.html

つまりは、ボランティア組織の成長の先に事業型NPOというものは、単なる一つの選択肢ではないかとおもうのである。また、違う視点からも考えられるNPOは必ずしもボランティアを必要としない。(cf:「なぜボランティアか-―「思い」を生かすNPOの人づくり戦略-スーザン-エリス」

 もともと、日本型のボランティアは、その礎をいかした社協のボランティア組織が中心であった。そして、いまも、それは地域型については、かわっていないのではないか、というのが、私の所感である。もちろん、市民型仲介型ボランティアセンターが一定以上の存在感をみせている。それもわかっている。しかし、自治会型ボランティア組織を組織論的に脱せていないように思っている。

 秋元氏がいうようなリーダー論は、営利会社であれ、非営利組織であれ、組織的マネジメントを行わなければならないの組織であれば、必須である。私などは、本来はボランティア組織であれば、そういった一リーダーのリーダーシップではない、民主的なボランティア組織的マネジメントを尊重するような文化が一方で尊重されてほしいと思ってしまう。だから、私はこの世界では時代遅れなのだろう。
最後に、これも、ずいぶん前のエントリーだが、NPOの役割論として、紹介したエントリーをはりつけておく
http://totutotu.seesaa.net/article/94783792.html:アメリカ型NPOの危険性

(最後の紹介のblog内で紹介している妻鹿ふみ子氏の論文は「福祉社会の再構築 人と組織と地域を結んでに所収の論文ですhttp://honto.jp/netstore/pd-worklist_0602979668.html
posted by 凸凸 at 17:39| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

支援者のこぶしの中には「何もない」がいいとおもう

ご存じの方も多いと思うが、私はfacebookをやっている。
はじめは、何だろう?からはじまり、そのあとの東日本大震災の時にはほんとうにfacebookを大活用した。
その縁で、実際にお会いしたことのない「facebook友達」もものすごく増えた。facebookには賛否両論あるのも承知しているが、そうしてひろがった私のfacebookネットワークは閉じることもできず、だからこそプライベートネタや特定に偏った発言もできなくなり、そしてフルオープン(基本は全公開)で運用をしている。日々は、シェアネタが多いが、たまに、少し抽象的にだが、日々の中で思うことを少し長めに投稿したりする。
前置きが長くなったが、昨日の朝、ここのところのしんどい支援の続きの中で生まれてきた気持ちを少し抽象的に綴った。簡単にいえば、支援者の仕事は主体的に決定や選択をしていただけるための環境づくりであり、支援者がその人を左右してはいけないはず。という考え方が中心になっている。
facebookの記事のリンク↓facebookのアカウントをお持ち出ない方もお読みいただけると思う
https://www.facebook.com/shogo.tomita.75/posts/906290759450516?notif_t=like

 現場の仕事は、実はそう思いつつ、一定のプロセスを踏みながらも、結局のところ支援者が決定や選択をせざるを得ない事案が起こってしまう。そのことを私はものすごくしんどく感じている。責任逃れではなく、その人の選択や決定する権利を侵食してしまった懺悔だ。
 私のfacebookをみてくださっている方はいろいろな方がおられるので、立場や取り方もさまざまだ。
コメントをよせていただいた方がたのコメントをみても、それぞれのお立場、仕事、思っておられることによって、きっと受け止め方が違うのだろうなと思う。

 その中で、主体的であることを強いて決定や選択を設定すると言うこと自体がそのもの主体的でないのではなないかというコメントをいただいた。
 
 私たちは、「主体的」ということばを使うが、これは実はこれ自体が、「レトリック」である。
つまり、「つくられたことば」だ。主体的ということばが実際に、自らが誰からも命令や指示されることなく、という意味であるとするならば、実は、主体的であるということを強いられること自体が、象徴的であり、権力的であり、そして、イデオロギカルである。ことば遊びのようだが、主体的であることを他者からや社会からいわれることによって、主体的ではなくなる。
 
 しかし、私たちはそれをわかっていながら、「主体的決定や主体的選択」を支援するという。
それは、なぜだろうか。簡単にいってしまえば、運動自覚的に、主体的に決定したいと思うのに、主体的に決定できない人がいるから。そして、その犯罪的な行為をしているのが、支援者自らであるから。

 私はfacebookに書いた。
 
じわっとあけた掌を開き、じっとそこに目をやる。
その中に、人の人生の「何か」が見えてしまうような錯覚に陥る
そんな支援はしたくない。

 
 相手の人生の「何か」を自分の拳の中に入れてしまえるような、そんな錯覚に陥るような支援はいやだ。
相手との握手の中で、そのつながりのなかに、生まれるものはあると信じつつ。


 
posted by 凸凸 at 17:03| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする